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Children & Education

子育て・教育

【試し読み連載】『大人になってもできないことだらけです』 第4回 荷物をおろして余裕をもって


多くの小学生と時間を共に過ごしてきた学童の支援員(放課後児童支援員)・きしもとたかひろ。
子育てにまつわる身近な悩みや子どもとの関わりで体験した温かいエピソードから、「休息や手抜きを必要なことにしてみる」、「自分にできないことは足りていないのではない」といった優しい目線で、抱えているしんどさをゆっくり手放すための考えをまとめました。毎週木曜日更新予定。



 「トイレ行っていいー?」と聞かれて「あかんでー!」と返す。すると、周りで見ていた子たちが「ウソやで! 行ってええで! 聞かんと勝手に行ったらええねんで!」と割って入る。
 「今日公園行くー?」と声をかけると「うーん、今日はやめとくわー」と返答があったあと、しばらくしてから「やっぱり、そのときの気分で決めていい?」と尋ねてくる。「もちろん」と僕は答える。
 砂遊びをしている子に「鬼ごっこをしようよ」と声をかける。断られたので「なあなあ、やろうや」としつこく誘ってみる。すると「学童は言うこと聞かないとあかんルールちゃうやろ!」と怒られる。
 部屋にいてトイレに行くのに許可なんかいらないし、なにをして遊ぶかはそのときの気分で決めればいいし、大人の言うことを聞かないとあかんこともない。したいこともしたくないことも、自分で決めたらいい。
ほんとにその通り。

 何年か前の話。学校から帰ってくると毎日のように漫画を読んでいる子がいた。ほかの遊びや公園に誘ってもよほど気が向かない限り応じず、学童で過ごす時間のほとんどを読書に使っていた。
 ほかの子たちとの関係や遊びへの関心などを考察しながらも、子どもの思いを尊重しようと無理に別の活動をさせることはしなかった。
 そんな中、保護者の方から毎日漫画ばかり読んでいて心配だと相談された。僕がその学童に勤めるまでは大人主導でさまざまな活動をやっていたらしく、その頃と比べて"なにもしなくなった"ように見えて不安になったようだった。
 今の僕であれば、その子の育ちや興味関心の観点から見通しを持って見守ることを伝えられたのだろうけれど、当時の僕は「好きなことをしていますし見守っていきましょう」としか言えなかった。
 お迎えのたびに「今日も漫画を読んでいました」と言うのが、それを言って「またですか」と残念がられるのがよくないことのような気がして、ある日少し強引にその子を外遊びに誘ってみた。すると、思いのほかあっさりと応じてくれて、意外にもみんなと楽しんでいるようだった。
 別の日にも声をかけると、またあっさりと連れ出すことができた。それから毎日のように公園で走り回る姿を見て「なんだ、ほかの遊びも楽しめるんじゃないか」。そう思い始めたある日、それが僕のエゴにまみれた大きな勘違いだったことに気づく。
 ある子が「俺は行かへん~」と答えたのを見て、その子が「え? 行かんでいいの?」と驚いたのだ。同時に僕も「え? 行きたくなかったの?」と驚いた。
 初めの頃は渋々だったかもしれないけれど、最近は乗り気のように見えていた。あんなにあっさりと受け入れて楽しんでくれていたから、喜んで参加しているものだと思っていた。
 「断ってくれたらよかったのに!」と言いそうなところをギリギリ思いとどまった。断れなかったのはその子のせいではない。僕のせいだ。



 大人と子どもの関係では、気づかぬうちに"従うこと"が"当たり前のこと"になっていることがある。僕にとっては"少し"強引なだけでも、その子にとっては断るという選択肢すらなくなっていたのだ。
 そして、公園で楽しんでいたあの姿は、連れて行った僕の力ではなく、それでも楽しもうとしたその子の力なのだ。
 自分のことは、自分で決めていい。嫌なことは嫌だ、やりたくないことはやりたくないと言っていい。
 それが本当は"当たり前"のことなのに、気づかぬうちにその当たり前を失くしてしまっていた。「断ることができる環境」が子どもにとってどれだけ大切なことかを、あらためて考えさせられた。
 僕はそのときに、無理に誘うことはもうしないと決めた。けれど、声をかけることをやめることはしなかった。毎日声をかけて毎日断られるたびに「また今度やろな~」と軽く返すことにした。
 好きなことをしていてね、断っていいんやで、けれど退屈だったり孤独感を抱いたりするときにはここにいるからね、と。
 こちらが思い描く姿に引っ張らないように、その子の"今したい"を尊重しながら、その子が自分の興味の外に目を向けたときにはそれを逃さないようにと、長い目で見守ることに努めた。

 毎日漫画を読みふけっていたその子は、あるときから急に、充電が完了したかのようにほかの遊びにも目を向けるようになった。自分のしたいことが尊重される。好きなことで心が満たされる。心が満たされると、ほかのことにも目を向けてみようかなという余裕が生まれる。
 新しいことには、余裕ができてようやく向き合える。とはいえ、きっとそれだけではないだろうから、ほったらかしにするわけではない。そして、その子が「しなければならないこと」でいっぱいになっていないかは見ていたい。もし、窮屈になっていたら「しなくてもいいこと」を増やしてあげたい。
 「したいことをすること」や「余裕を生むこと」を、"大切にする"だけではなく"必要なこと"にできたらいいなと思うようになった。


休息や手抜きを「必要なこと」にしてみる

 子どもと関わるときに、いつもなら笑ってスルーできることを見過ごせなかったり、少し強めの口調で注意してしまうときがある。
 あとで振り返るとだいたいが、僕自身が体調が悪かったり時間に追われていたり、外出先で周りの目を気にしていたりするときだ。どれも、余裕がないために起きること。
 困ったことに、こういうときって「あ、よくないぞー、言い方キツくなってるぞー」と自分で思いながらも、うまくコントロールできなかったりする。
 そしてあとから「ああ、あんな言い方しなくてもよかったのになあ」と反省という名の自己嫌悪に陥って、また余裕がなくなる。
 「余裕を持つこと」と「機嫌よくいること」ができるだけで、子どもとの関わりは変わってくる。あまり極端なことは言いたくないけれど、たったそれだけで激変するといっても過言ではないくらい、「心の余裕」はときに、技術よりも知識よりも大切になってくる。
 ただ、大切なことはわかっていても、「よし、今から余裕を持とう」と言って簡単にできることではない。余裕がないと、余裕は持てないからだ。両手がふさがっていたら持てるものも持てない。まず荷物を降ろして片手を空ける必要がある。
 この「余裕を持つ」って、知識や技術を身につけたり心を広く持ったり、そうやって器を大きくすることではなくて、今ある器の大きさのままで空き容量を増やすことなんだと思う。
 容量がいっぱいだとアップデートも新しいアプリをダウンロードすることもできないように、新しい知識も情報も入ってこない。器を大きくすることではなくて、まずは空き容量を増やすこと。
 そのために、余裕を作ることを「必要なこと」として位置づけてみる。「しなければいけないこと」でいっぱいになってしまっている日常に「余裕を持つためにすること」を組み込んでみる。なんでもいいと思う。ぼーっとしたり、映画を観たり散歩したり好きな服を着たり、ほんとになんでもいい。
 これは「しなければいけないこと」だから、後ろめたい気持ちなんか微塵(みじん)も必要ない。少しお金を使ったり手を抜いたり、誰かに頼ったりしてもいい。「必要なこと」なんだから。
 しなければならないことから離れて自分のしたいことをすると、ただそれだけで心に余裕ができる。満たされた分だけ空き容量が増える。けれど、一つ気がかりがある。それは、頑張っている人は頑張っているように見えて、頑張っていない人は頑張っていないように見えてしまう、ということ。
 寝ずに働いている人を見ると「頑張っているなあ」と言うけれど、息抜きをしたり昼寝をしている人を見ても「あの人ちゃんと休んでいるなあ」という会話にはあまりならない。
 だから、僕ははっきりと言ってみようと思う。余裕を持つために子どもから離れたり、ときには手を抜いたりすることは「必要なこと」なんだと。
 「手を抜いてもいいんだよ」ではなく、「ちゃんと手を抜きましょう」と。自分は子どもと離れてダメなんじゃないか、手を抜いてサボっているんじゃないかなんて思わなくていい。メンテナンスをしているのだ。コンディションを整えているのだ。必要なことをしているのだ。
 周りで見守る人たちも「子どもがかわいそう」という正義を振りかざす前に、その視点で見られるようになれば、「必要なこと」のためにサポートしていけるんじゃないかなと思う。余裕を持つことが、ひいては「子どものため」につながっているんだと思えるんじゃないかなって。



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