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多くの小学生と時間を共に過ごしてきた学童の支援員(放課後児童支援員)・きしもとたかひろ。
子育てにまつわる身近な悩みや子どもとの関わりで体験した温かいエピソードから、「休息や手抜きを必要なことにしてみる」、「自分にできないことは足りていないのではない」といった優しい目線で、抱えているしんどさをゆっくり手放すための考えをまとめました。毎週木曜日更新予定。
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僕の母は本の虫だ。
実家へ帰ると、いつも違うタイトルの本が居間に置いてある。図書館で数冊借りたものを同時進行で読み進めているようで、全部読み終える前に横着してまた別の本を借りてくるため、常時4、5冊は新しい組み合わせの本たちがリビングに並べられている。
四六時中、本を読んでいるからといって、知識人で知見が深いのかといえば、残念ながらそんなことはない。
いや、失礼。教養がないと言いたいわけではなく、走るのが好きだからといって足が速いとは限らないのと同じで、読書が好きなことと知識が豊富なことはイコールではないようだ。決して悪口ではない。
例えば僕が同じ本を読んで感想を話しても「そんな場面あったっけ?」と内容を忘れていることがざらにある。「読む」という行為自体を楽しんでいるのだろう。
せっかくそんなに読むのなら、なにかに生かしたらいいのにと伝えたことがあるのだけれど、今思えばナンセンスな言葉だったなと感じる。
母にとっては「本を読む」ということ自体に意味があって、「役に立つ」かどうかはオマケみたいなものなのだ。
本を「学び」としてではなく、「娯楽」として楽しんでいる。なにかを身に付けるためではなく、読むこと自体に意味があるから付加価値は必要ないのだ。
シールを集めるためではなく、純粋にウエハースチョコが食べたくておまけ付きのお菓子を買う人ってどれくらいいるんだろう。
チョコを売るためにシールという付加価値をつけたり、そのシールを集めるためにチョコを買ったりする人が多いこの社会では、「読む」行為を楽しむことが少し尊いことのように思った。
先日6歳の子が「リカちゃん(人形)ファミリーを描くのだ」と意気揚々とスケッチブックを開いたのに、しばらくしたら「うまく描けない!」と癇癪(かんしゃく)を起こして何度も描き直していた。
はじめはお絵描きを楽しんでいたのが、「上手に描きたい」という気持ちが生まれ、 "うまく描けない自分"と"それでも描きたい自分"との間で葛藤が生まれたのだろう。
そのとき、自分の"楽しい"という気持ちを膨らませようと「顔だけ描いて」と僕に委ねてきた。
出来上がっていく過程が面白いのか、はたまた羨望の眼差しか、描いている手元を食い入るようにじっと見つめながら「わあ、じょうずじょうず!」と喜ぶ姿を見て、これもまたその子にとっての"絵を楽しむ"ということなんだなと思った。
ちなみに、僕も「うまく描けない!」と癇癪を起こしそうになったけれど、頑張って描いた。リカちゃんときかんしゃトーマスは描くの難しい。
楽しいことと役立つこと
子どもたちに「一緒にやる?」と誘ったときに、「ヘタだから」と断られることがある。一人や二人ではない。
「うまいもヘタもないよ」と言っても、その子にとっては評価されるものになってしまっているのか、遊びで描くのも抵抗があるようだ。
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僕にもそういうことがあるな、と考えを巡らせる。いつだったか「オンチだね」と言われた。今となっては誰に言われたかも覚えていないその言葉が、服に刺さって取れなくなった釣り針のように引っかかって、痛くはないけれど着るたびに穴は広がっていった。
歌うたびに「ああ、ヘタなんだよなあ」と思ってしまうから、今では鼻歌を歌うこともしない。
その子は、誰かに「ヘタだね」って言われたのだろうか。ほかの子の描いた絵と比べて自分で思ったんだろうか。誰かが褒められているけれど自分は褒められなかったからそう思ったんだろうか。考えてもどうしようもないことを想像してしまう。
苦手という感覚は、ほかと比べたり周りから評価されたりして生まれるものなんだと思う。
絵を描く、走る、歌う、ほとんどのことは誰かに評価されるためのものではないはずなのに、あるタイミングで「絵がヘタなんだ」「走るのが遅いんだ」「オンチなんだ」と気づいてしまって、「苦手(不得意)」になる。するとそのまま楽しむことができなくなって「苦手(好きではない)」に変わっていってしまうんではないだろうか。ヘタでもオンチでも、好きなままでいてかまわないのに。
ヘタでも楽しそうに歌う姿はかわいらしい。鼻が詰まって音階もリズムもどこへやら、勢いだけの大きな声で歌っている姿を、ヘタでも愛おしく感じることがある。
それは、その子が歌っている歌そのものではなく、思い切り歌うことを楽しんでいる姿に心が揺さぶられるからだろう。
その子の「楽しい」の姿に勝るものはないのに、僕たちはあっさりとその楽しさの芽を摘んでしまっているかもしれない。そんなことをたまに考える。
描く触感を楽しむ。さまざまな色が出ることやいろんな形を描くことを楽しむ。ただ表現することを、絵を描くことを楽しむ。うまく描けるようになる自分を楽しむ。絵を描くことひとつとってもいろんな楽しみ方がある。
その中で、育つのは手先の器用さや観察力などの目に見える能力だけでない。好きなことに没頭して「楽しい」を積み重ねることでしか得られない力もある。
「非認知能力」といって、それは、好きなことを続けていればそれで食っていけるよとか、楽しんでいればその能力が伸びるという話ではなくて、もっと根っこの力が育っているってことなんだけれど、ここでは役に立つことは書かないことにしたので説明は割愛する。
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僕たち大人はついつい目に見えて役に立つことに注目してしまう。漫画やゲームより読書をしてほしいし、遊んでいる姿ではなく遊んでいる内容を気にしてしまう。いつもなにかができるようになることを期待している。
「今を楽しむ」ことが大切だとわかっていても、どうしてもそれが刹那的なことのように感じて、目に見える育ちを見て安心したくなる。「非認知能力が役に立つ」というのを聞いても、じゃあそこを伸ばそう! と思ってしまう。
すると「熱中してくれ」「楽しんでくれ」と、子どもにこちらの思いを押しつけてしまい、結局「役に立つ」ことに価値を置いてしまっている自分に気づく。
ややこしいことに、「ヘタだね」ではなく「うまいね」と褒めていればいいのかと言えば、必ずしもそうではない。うまいことに価値があるということは、逆説的に言えば「うまくないと価値がない」と感じてしまったりする。
極端な解釈に感じてしまうかもしれないけれど、存外、それを楽しめなくなってやめる理由としては十分だったりするから、なにが正解なのかますますわからない。
ぐるぐる考えすぎてしんどくなってくる。じゃあどうすればいいんだよ、と。
これは合ってるのか? 間違ってるのか? 子どもの意欲や好きなことを奪っているのか? 子どもにとって役に立たないのか?そんなことばかりを考えてしまう。