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苦手だったのは「怒られること」 子どもの頃の話を聞かせて!第5回「絵本作家・ヨシタケシンスケ」


初の長編絵本『メメンとモリ』が発売たちまち18万部を突破。デビューから次々にヒット作を生み出している絵本作家のヨシタケシンスケさん。子どもにも大人にも愛される独自の世界観は、どのようにして育まれたのでしょうか。子どものころの話、そして2児の父として、絵本作家として感じることを聞きました。

【プロフィール】
ヨシタケシンスケ
1973年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院芸術研究科総合造形コース修了。スケッチ集、児童書の挿絵、装画、イラストエッセイなど、多岐にわたり作品を発表している。デビュー作『りんごかもしれない』(ブロンズ新社)をはじめとした多数の著作は累計600万部超。近著『メメンとモリ』も好評発売中。

 



反抗期のない子ども時代。それがコンプレックスだった

 ものを作ること、とくに工作が好きで、テレビ番組『できるかな』の、のっぽさんがヒーローでした。僕には2歳年上の姉と2人の妹がいて、優秀な姉には何をしても叶わなかったのですが、唯一、姉がやらなかったのが工作。僕がテレビを観て工作をすると、母親がとても褒めてくれた。それがすごくうれしかったですね。
そのうち、のっぽさんとゴン太くんがつくるものではなく、「ゴン太くん」そのものをどう作るのかを研究するようになって。着ぐるみの中から外が見えるためにはどうしたらいいのかを、よく考えていました。


ヨシタケシンスケさん 0歳のころ



 性格的には、臆病で、怖がりで。生まれつき「不安が強い」という心のクセがありました。特段厳しい家庭ではなかったのですが、想像力をネガティブに使って、自分のなかの恐怖をどんどん大きくしてしまうところがあった。

 とくに音に過敏で、たとえば夏に窓を開けて家族でテレビを観ていると、「テレビの音、大きすぎないかな」「隣の家の人がうるさいって思わないかな」と、なんだか気になってくるんです。それで窓を閉めるんだけど、そのうち部屋が暑くなって、家族に「窓開けなさい」といわれる。仕方なく窓を開けながら、「……やっぱり、なんかうるさくないかな」と気に病んでいたことを覚えています。

 小学生のころはちょうどテレビゲーム創成期。母親はゲームが好きではなかったので、わが家は全面NGでした。家でやったことがないから、友達の家でやっても上手くいかなくて。流行りにのらない性分は、このころに生まれたのかもしれません。家には母親が買ってくれた絵本や図鑑がたくさんあって、好きなページを好きなだけ眺めているのが、僕にとっては楽しい時間でした。船や家の断面図、たくさんのパンが並んでいるページなど、お気に入りのページをひらすら眺めていましたね。

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↑ヨシタケさんが繰り返し読んでいたのがこちらの絵本。
「船の断面図がすごく好きで、ひたすらずっとこのページを見ていましたね」(ヨシタケさん)
『What Do People Do All Day?』リチャード・スキャーリー作(RANDOM HOUSE)

 苦手だったのは、「怒られること」。怒られたくないから、忘れ物や遅刻はほとんどしませんでした。目立たないことに平和を感じていて、我を通して場が荒れることのほうが嫌だった。家では姉と妹に挟まれた中間管理職のような立場だったから、「場を荒らさない」能力はあったんですよ。家でも、学校でも、自分が我慢することで場が荒れないなら、その方がよっぽどいいと思って過ごしていました。

 そんな考え方のクセが浸透していたからか、反抗期はまったくなかったんです。でも、それがコンプレックスで。同級生たちが「うるせえ、ババア」となっている時期に、こんなにも世の中へ怒りや不満がなくて大丈夫なのかなと危機感を持っていました。「自分の夢」を提出させられるのも、キツかったですね。ハングリー精神とかがんばりを、なぜ求められなきゃいけないのって。今なら、「それは先生や親の都合だよ」って思えるんですけれどね(笑)。



大学生活で初めて知った「認められる喜び」

 大きく変わったのは、大学に入学してからです。高校の美術部の先生に教えてもらって、筑波大学の芸術専門学群に進んだのですが、そこにはギラギラしている人はいなくて、美大生ほど実技が上手くないというコンプレックスを抱えた、おとなしい学生たちが集まっていた。その、なんだか鬱屈とした感じが、僕にはとても心地よくて。

 僕はそれまで、「作品」とは、世間に訴えかけたいことがある人がつくるもので、想いのない自分なんかがつくっちゃいけないと考えていました。でも課題でやらなきゃいけなくて、つくってみたら、友達や先生が僕の作品をすごくおもしろがってくれた。なんとなく考えたアイデアを人に見せていいという、至極当たり前のことに初めて気づいたんです。


23歳のころ。大学が楽し過ぎて卒業したくなかったため、大学院に進んだという


「ああじゃなきゃ」「こうじゃなきゃ」ってことをずっと気にしていたし、今でもそれは気にし続けているんだけれど、「これ、ちょっといいよね」だけで、人とつながっていい。まわりに認めてもらうことの気持ちよさを初めて知りました。同時に、「ああ、小中高って、つまんなかったんだ」ということもわかりました。

 だから、ヨシタケ家の家訓は「ピークは遅いほうがいい」。僕自身、華々しい子ども時代を送ってきたわけではないですからね。早くから大きな成功を目指さなくても、小さいうちはクラスでウケたとか、誰かに褒められたとか、そういう小さなご褒美みたいなものを拾い集めるだけでじゅうぶん。あとあとちゃんと楽しみが残っているよ。先は長いよと。そんな価値観を、子どもにも大人にも伝えていきたいと思っています。



子どものころの自分にプレゼントする気持ちで絵本を描く

 2人の息子に対しては、怒ることもあればイライラすることもある、ごく普通の父親です。息子ができたとき、じつはちょっと困ったんです。僕は父のことを、言葉の選び方やいろいろな面でセンスがないなあ、と感じていたので、僕が父に思うように、息子に何か思われるのが怖かった。でも、いざ息子が生まれてみると、やっぱり楽しいんですよね。そして、自分が子どものころ父親のことが大好きだったことを思い出しました。

 いまならわかるのですが、大人だって完全じゃない。ヒヤヒヤしながら、どうにかこうにか仲間と助け合って群れで暮らしている。それを子ども時代からイメージできるのは、すごく大事だと思っています。そういった思いもあって、息子には自分の失敗談をなるべくたくさん語るようにしています。たとえば、小学生のとき木登りして降りるときにズボンのおしり部分が破けた話とか(笑)。午前中いっぱい座って隠したけど、給食でおかわりを取りに立って、クラス中にバレちゃったんですよね(笑)。

 こんな僕でも、大抵のことはなんとかなったし、大人になって、人の親にもなれた。失敗しても大丈夫だよっていうことは、一生懸命伝えていきたいと思っています。

 とはいえ、親が子どもにすべてを伝えるのは、やっぱり難しい。だから、ほかの大人が息子に伝えてくれているように、僕は絵本を通じて、親や先生が立場上いえないこと、身もふたもないような考え方を、1個ずつおいていけたらと思っています。たとえば、「夢なんてなくてもいいんだよ」とかね。子どものころの自分にプレゼントしたいというのが、僕が絵本を描く一番のモチベーション。絵本作家という、近所のよく知らないおじさんくらいの立ち位置から、いろいろな選択肢を1個ずつ置いていきたいですね。



↑ヨシタケさんが絵本作家としてデビューするとき参考にした絵本がこちらの3冊。
「(右から)『やっぱりおおかみ』は、子どものころは絵を、大人になってからストーリーを理解した、まさに二度楽しんだ絵本。
そういうものをつくれたらと思っています。
『はなのあなのはなし』はやさしい語り口、『からすのパンやさん』は絵の楽しさの大切さを学びました」(ヨシタケさん)
右から
『やっぱりおおかみ』ささき まき 作・絵(福音館書店)
『はなのあなのはなし』やぎゅう げんいちろう 作(福音館書店)
『からすのパンやさん』作・絵:かこさとし(偕成社)

 

取材・文  三東社


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