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子育て・教育

【試し読み連載】『大人になってもできないことだらけです』 第5回 ベンチからナポリタン


多くの小学生と時間を共に過ごしてきた学童の支援員(放課後児童支援員)・きしもとたかひろ。
子育てにまつわる身近な悩みや子どもとの関わりで体験した温かいエピソードから、「休息や手抜きを必要なことにしてみる」、「自分にできないことは足りていないのではない」といった優しい目線で、抱えているしんどさをゆっくり手放すための考えをまとめました。毎週木曜日更新予定。



 朝、ラップにくるんだご飯を電子レンジで温める。横着して素手で茶碗に移そうとしたものだから熱さに耐えきれず、ラップをはがしたタイミングで熱々のご飯が茶碗ではなく床へダイブする。
 朝食をとれないまま家を出て鍵を閉めたところで、着ているパーカーが部屋着だと気づく。さっきの米粒が裾についていて、さすがにこの格好では出勤できないなと、閉めた鍵を抜かずに反対に回す。
 着替えをして部屋の鍵を再び閉めてから階段を下り始めたところで、同じアパートの住人と目が合ったので会釈をする。大きな袋を抱えているのが目に入って、あることを思い出す。
前々回のゴミの日から出しそびれて膨れた45ℓ袋を、今度こそ忘れないようにと昨晩玄関に置いたのだった。下りかけた階段を一段飛ばしで駆け上る。
 ごみ集積所に来て本日最大のミッションを遂行した達成感でスキップしそうになったところで、ポケットWi-Fiを忘れたことに気づく。Wi-Fi環境なしで1日過ごす不便さを考えれば、電車1本遅らせても取りに帰るべきか、と考えて踵(きびす)を返す。
 ポケットWi-Fiをカバンに押し込み、ようやく駅に向かって歩き出す。出だし順調とは言い難いけれど、雲ひとつない空を見たらいい1日になりそうな気がして大きく深呼吸する。
 少し冷たい空気が心地いい……あれ? ……マスクをしていない。なんてこった。財布は忘れてもマスクは忘れてはいけないこのご時世。さすがに取りに帰らないわけにはいかない。

 2本遅らせた電車に乗りながら友人からのメールに返信する。朝から散々だったことも報告すると「通常運転で安心するわ」と返信が来た。
 そうか、これが僕の通常運転か。たしかにうまくいかないことも平常だと思えばイライラしない。うまく生きられない自分をそのまま受け入れてくれる存在はありがたい。
 音楽を聞いて気分を上げようとイヤホンを探す。朝、歯を磨きながら出発の準備をしているときに手に取ったイヤホンを、忘れないようにとパーカーのポケットに入れたのだ。
 そうだ、「忘れないように」とパーカーのポケットに入れたのだった。
落ち込むどころかむしろ期待を裏切らない自分に感心する。うん大丈夫、これが僕の通常運転だ。



想定通りにいかないことに向き合うということ

 子どもになにか行動を促すとき、例えば移動してほしいとか片付けをしてほしいというときには、指示ではなく「お願い」をするようにしている。
 強制ではなく、あくまでもお願いだから相手には断る権利があるし、断られたら無理強いはしないようにする。選択できるというのは、その子の人権や主体性を尊重する上で重要な要素だ。
 けれど、どうしても行動してほしいときはある。人手がなかったり時間がなかったり、いずれにしてもこちらの都合なんだけれど、そんなときに受け入れてくれなかったら少し強い口調でお願いしてしまう。そうなったら「お願い」とは表面だけで半ば強制だ。
 意固地になって動かない子がいて、どうしても説得できないときには最終手段として怒って、ほとんど脅しのような形で無理やり行動を促してしまうこともある。
そんなときにふと思う。最終的に拳銃を突きつけて無理にでも言うことを聞かせるのなら、初めから子どもが自分の思い通りに動くことを前提にしているんじゃないのかって。
 もちろん拳銃は比喩だけれど、子どもの思いを尊重すると言いながら穏やかに声をかけているつもりでいて、実のところ最後は力でどうにかできると思っているんじゃないか? と。
 こちらの想定内の内容であれば、その子が選択したことを尊重できる。けれど、想定外のことでも受け入れられるだろうかと考えたら、自信を持ってイエスとは言えない気がする。
 僕は「子どもの主体性を尊重しています」とよく言っているけれど、こちらが用意した数ある正解の中から、その子が選んだことを尊重しているだけにすぎないんじゃないか。
 もちろん危険なことは尊重できないし、選択肢が限られている中でどれにしたいかを決めてもらうことはある。
 けれど、ゼロからどうしたいかを聞いたときや、子どもがこちらの想定していない言動をしたときに、本当に子どもの気持ちを受け止められているんだろうか。
 根っこの部分では子どもを手のひらの上でコントロールできると思っていて、こちらが描いた正解に向かわせようとしているんじゃないか。そんなことを考えたりする。



 

 とりとめのない話、例えば何度も忘れ物をしたとかゴミを出し忘れたとかそんな話をしたときに「だから?」と興味なさそうにされると、傷ついたりムカッとしたりする。
 とりとめのない話なのだから取るに足らないと思われてもいいはずなのに、なぜか傷つく。
 それは、自分の話に興味を持ってくれないとか無下に扱われたというような、相手の振る舞いだけが原因ではなく、自分の中にも要因があるような気がする。
 例えば、僕自身が知らぬ間に相手の反応を予想あるいは期待しているんじゃないかと。
 こんな風に返ってくるのかなと。ありがとうと言えばどういたしましてと、頑張れよって言ったらお前も頑張れよと返ってくるように。期待に似た「当たり前」を抱いているのかもしれない。
 それが明確ななにかではなくても、無意識になにかしらの期待をしていて、そして「思っていた反応と違う」ことにがっかりしているんではないだろうか。期待はしていなくても想定はしている。
 あの子があんなことをするなんて、あの人があんなことを言うなんて、と裏切られた気分になったら、もしかしたらそれは自分が勝手にその人を想像の中で作り上げたり、自分の「当たり前」で勝手に期待しているだけなのかもしれない。
 いつも遅れて来るからとギリギリの時刻にバス停に向かったら、バスが停留所を通り過ぎたところだった、ということが何度かある。いつも遅れるくせに……とは逆恨みもいいところで、完全に自分のミスなのにイライラしてしまうのは、遅刻するかもという余裕のなさではなく、想定通りにことが運ばないからなのだろう。
 朝晴れていたのに帰宅のタイミングで雨に降られる。運が悪いなという気持ちとあわせて、天気予報では降らないと言っていたのに…と、傘を持たなかったことを誰かのせいにしたりする。
 けれどよく考えたら、天気なんて自分じゃどうしようもないこと。ある程度の予測はできてもコントロールできないことはわかっている。なのにイライラしてしまうのは、想定外のことが起きたことが気に食わないのかもしれない。



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