発達障害や知的障害、言語障害の専門家として知られる川﨑聡大氏(立命館大学教授)をはじめ、子どもに関する各分野の専門家が集結! 発達障害の子が不安なく、しあわせに生きていくため、家庭・学校・地域社会でどう環境をととのえたらよいかを詳しくていねいにお伝えします。
連載第3回は、「家庭ではぐくむ子ども」の中から「いったいなんのために子育てをしているの?」と「どうして子育てはこんなにしんどいのか」を紹介します!
※本連載は『発達障害の子が羽ばたくチカラ 気になる子どもの育ちかた』から一部抜粋して構成された記事です。
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いったいなんのために子育てをしているの?
この本の執筆にあたり、監修の川﨑先生から「ネットにあふれる耳触りがよいだけの言説ではなく、科学的な知見に基づいて書きましょう」とのお言葉をいただきました。その心意気に感銘を受けるとともに、ただ、親子関係に関するこの章の執筆には少々悩ましい気持ちも抱えています。
学生時代、子育て中の方からよく「育児書なんて役に立たない」「育児雑誌に載っているみたいには子どもは育たない」と聞いていました。何を言っても「イヤ」と言って聞かない我が子をどうしていいのかわからず、育児書を手に取ったけれども、ピンとこない。今でいえば「ネットの情報は信用できない」という感じでしょうか。
研究者の立場からすれば、科学的な知見に基づいて話をしようとすればするほど、一般的な傾向や、あたりさわりのない表現になりがちな気がします。結果、「うちの子には当てはまらない」との印象を植えつけてしまうようにも思えるのです。「泣いている時は受け止めて、優しくなだめてあげましょう」なんて書いてあっても、「いや、もうやってるわ!」とツッコみたい気持ちになりますよね。
子どもの個性はほんとうにそれぞれ
子どもに対してどう接すればよいのかは、その子どもの個性や特性、あるいは「気質」(「発達特性」の素ともいえる、生まれながらに持っている神経学的な行動傾性を言います。例えば、突然大きな音がした時に、過敏に反応して泣くのか、意に介せずゆったりと過ごすのかの違いなどがあります)といった子どもの特徴を考える必要があります。例えば「2歳児にはこうすればよい」といった一般的な話はピンと来ないでしょう。何より、この「気質」という個人差は実にその幅が広く、本当にいろいろな子どもがいます。
保育園児たちがお散歩をしていて、草にテントウムシがとまっているのに気がついたとしましょう。「かわいい」と言って触ろうとする子、気持ち悪いと後ずさりする子、先生に「あれ何?」と質問をする子、本当は質問したいのだけれど恥ずかしくて質問できない子、そもそもどんなふうに質問すればよいか言葉を選べない子、はたまた、そんなみんなの姿は意に介せずひとりだけ上空を通り過ぎる飛行機をずっと見ている子などなど、反応は実に様々です。
このように、子どもと一言でいっても、その特性や行動特徴は実にバラバラで、簡単に、「こんな時はこんな風にすればいいよ」という言い方は難しいなと思うのです。
子どもとの向き合い方を考える
同時に、「子育て」が日常的に続いていくものであることを考えると、親の関わり方も、意図によって変わってくる場合があります。例えば、歯磨きが終わった後にジュースを飲みたいと子どもがねだってきた時にどうするか。「しつけ」として、寝る前に甘いものは取らないことにしているよね、とルールを伝えてそれを守るという態度を示すことも必要でしょう。しかし、その日がたまたまその子にとって非常につらい出来事があった日で、悲しい気持ちのままお布団に向かうことができず、その気持ちを受け止めてもらいたくて、ジュースをねだってきているのだとしたらどうでしょう。その気持ちを受け止めて、でも、飲んだ後ちゃんともう1回歯磨きするんだよと約束をして、その要求を受け入れてあげてもいいのではないでしょうか。こうした、「どのように育ってほしいか」という親の願いと、子ども自身の育ちの姿や日々の気持ちの浮き沈みというものとのすり合わせもまた、育児書通りに、ルール通りにいかない子育ての現実の姿のように思えます。一方、育児書や育児雑誌は子ども一人ひとりの特性や気持ちの動きまでカバーしきれず、保護者に届きづらいのではないでしょうか。そういうわけで、本章の執筆にあたって悩ましく感じているのです。
そこでこの章では、主に小学校に入る前の子育てを中心に、親としてどうすべきか、どうあるべきかではなく、発達障害の有無にこだわらず、そもそも子どもと向き合う時に、保護者がどのように考えればいいのか、保護者が自分自身をどのように捉えればよいのかについて、手助けになるようなことをお伝えできればと思います。そしてその中で、自分の子育てのスタイルを見つけてもらえるといいなぁと思うのです。そのスタイルとは、一言でいえば、「なんのために子育てをしているのか」について、自分なりの答えを持っていることだと思います。
神谷哲司
どうして子育てはこんなにしんどいのか
100年前の農村社会の子育てと現代の子育て
子育ては楽しいばかりではない。こういった認識は近年世間に広まり、学生からも「子育ては大変だから、自分には自信がないです」なんて言われることもあります。
しかし、どうして子育てはこんなにしんどいのでしょうか? このことを考えるために、現代の子育てと昔の子育てとを比較してみたいと思います。ここでは100年ほど前、大正時代から昭和初期の農村社会で考えてみましょう。
この頃は乳幼児の死亡率が高かったことから、「たくさん産んで、残った子を育てる」時代でした。また、農業では遅くとも思春期を迎える頃には働くことができますので、子どもたちも農作業や家事などに労働力を提供することが期待されていました。そうしたこともあり、当時はきょうだいの数(=女性が一生のうちに産む子どもの人数)も多かったのです。農業そのものも現代のように機械化されていないので、子どもも含め、村の人々が文字通り力を合わせ、相互に助け合いながら共同体として生活していました。子どもたちは4、5歳にもなれば年長の子どもたちと一緒に、子ども集団の中で里山を駆け回って遊んでいたので、親が一日中子どもの傍らにいて面倒を見るようなことはありませんでした。
また、興味深いことに、この時代の女性がどれくらいの時間を家業(農業)と家事・育児に費やしていたかについて調べた研究では、2歳の男の子の子育ては祖母と15歳の次女が同じくらい担っており、母親はほとんど我が子の養育に関わっていないことが示されています。こうしたことは、この時代の子育てが、大家族を中心として様々な大人や年長者によって営まれていたことを示すものだと考えられます。
一方、核家族が基本の現代日本社会では、子どもの数はせいぜい1人か2人であり、子育ては基本的には家の中で営まれます。共働きも増え、日中は保育所等の保育施設で過ごす子どもたちも増えました。保育時間は長時間、長期間になる傾向がありますが、それでも保護者はお迎えをして、帰宅してご飯を食べ(させ)、お風呂に入り(洗い)、寝かしつけるといった日常的な世話をしなくてはいけません。さらに子育て世代の男性の労働時間は依然として長く、子どもの世話を母親がワンオペでやっている家庭も珍しくない状況です。ましてや、日々の世話だけでなく、オムツや着替えなど園での生活に必要なものや行事の準備、健康診断や予防接種、習い事などの調整も長期的な生活の中で求められるようになります。まさに、「無理ゲー」(攻略することがほぼ無理なゲーム)なのです。
昔の子育て環境から学びたいこと
先に見た100 年前の地域社会での子育ても、衛生面や医療的ケアが行き届いていなかったり、大人数ゆえの人間関係のトラブルなど苦労も多かっただろうと思われます。ただ、子どもが育つ環境としては、子どもたちは多様な大人や年長者や仲間の中で、自分なりの安心できる相手を見つけることができたり、誰かとの関係で気まずくなっても、他に頼れる人を見つけたりできたことでしょう。ところが現代では、家庭内にいるのは多くても父母ときょうだいの4〜5人、少ない場合には母親と子どもの2人きりです。幼少の子どもは愛着対象となった保護者にくっつきたがるため、特にその対象となることの多い母親は、ずっと子どもと過ごしていることをつらい、しんどいと感じてしまうのだと思います。実際、共働きの母親よりも子どもと離れる時間の少ない専業主婦の母親の方が育児ストレスは高いという研究結果があります。
昔の子どもたちは、幼少であっても祖母や姉を含めた複数の養育者の世話を受けながら、多様な人間関係の中で育っていたのでした。だとすると、私たちは今あらためて、子どもの育つ環境として過去と現在の事実を比べ、子どもにとっても望ましい生育環境とは何かを考えていく必要があるように思われます。例えば近年、「発達障害児が増えている(ように見える)」と言われています。それが定義の変更によるものなら、なぜ変わったのか。そもそも、「気になる子」に対して、私たちは何を「気にしている」のか、なぜ「気になる」のか、考える必要があるでしょう。その根底には「子育ては親の責任」 という現代的な価値観が潜んでいるのだと思います。
神谷哲司
「気になる子ども」という言葉を入り口に、発達障害、子育て、学校との関係、社会とのつながりについて、一緒に考えていく一冊です。
この本を通じて、子どもと養育者の関係性の中だけで問題を解決しようとすることなく、少し俯瞰した視点に立って、今より少し生活をよくする手がかりが得られることを願っています。
【書籍情報】