
小説紹介クリエイターけんご厳選! ミステリー・恋愛・ホラー・SFなど、88冊の多種多様な小説を紹介。
100年以上前に発表された作品から、近年刊行されたばかりの新刊まで。
栄誉ある賞を受賞した作品から、新人作家のデビュー作まで。
思わず涙が溢れてしまう物語から、戦慄が走るほどのホラー作品まで。
動画では紹介していない作品も多数収録しています。
連載第1回は「第1章 胸が締めつけられる物語 ―余韻が残る読書体験をしたい方へ―」から『博士の愛した数式』をご紹介いたします。
・本連載は『けんごの小説紹介 読書の沼に引きずり込む88冊』から一部抜粋して構成された記事です。
『博士の愛した数式』小川洋子(新潮文庫)
きっと読んだことのある人が多いだろうと思いつつ、紹介せずにはいられない小説があります。『博士の愛した数式』です。毎年行われる、書店員の方々が最も売りたい本を決める祭典「本屋大賞」の栄えある第一回受賞作になります。僕も大好きな小説で、これまで何度も読み返しているほどです。
物語は、シングルマザーの家政婦である「私」が、とある数学博士の家に派遣されるところから始まります。博士は、ある重大な問題を抱えていました。記憶がたったの八十分しか持たないのです。
認知症ではありません。六十四歳の博士は、十七年前に起こった事故が原因となり、記憶を蓄積することができなくなってしまったのです。博士は、いつでも見返せるように、大切なことをメモして、背広のいたるところにクリップで留めています。
……………………………………
《僕の記憶は80分しかもたない》
……………………………………
これはメモの一つに書いてある言葉です。
博士から見ると、「私」はいつも初対面になります。覚えられないのだから、仕方ありません。何度も同じ会話を交わしても、どれだけ素敵な出来事があったとしても、博士は八十分後にはすべてを忘れてしまいます。
そんな博士と、彼女はどのように向き合うのでしょうか。なぜ博士はたった八十分しか記憶が持たないのでしょうか。そして、タイトルの『博士の愛した数式』とは、どのような数式なのでしょうか。
この物語には、もう一人重要な人物が登場します。それは、家政婦の息子です。博士は、この少年のことを「ルート」と呼びます。頭のてっぺんがルート記号(√)のように平べったいからです。
博士は、数学に疎い家政婦と、まだ十歳のルートに、わかりやすく数学を教えてくれます。「私」とルートは、数学を通じて少しずつ博士と心を通わせていきました。記憶は残っていないのに、いつだって初対面同様であるのに、博士のルートに対する接し方は、変わることがありません。不器用ながらも、数学を愛し、温かくルートに寄り添うのです。そんな博士の姿が、僕の目には儚くて美しく見えました。
魅力に満ちているのは、博士だけではありません。ルートもまた、十歳とは思えないほどに、優しい気遣いに満ちている、温かい心をもつ少年なのです。
ほのぼのとした描写が続きますが、終盤へ近づくにつれ、徐々に物語の雰囲気に変化が表れます。博士の愛した数式が明かされたとき、あなたは何を思うでしょうか。
ところでこの小説には、博士、家政婦の女性、ルートの他に、実はもう一人、物語の鍵を握る登場人物がいます。それが誰なのかは実際に読んで確かめてみてください。さまざまな愛の形があることに気づかされるはずです。
この小説を読めばきっと、数学が愛おしくてたまらなくなると思います。
新しい読書体験で、ぜひ「読書の沼」にお入りください
本書では、数多の小説の中から、多種多様な88冊を選んで紹介しています。僕自身もさまざまな作品を読むことで、新たな気づきを繰り返してきました。本書で紹介している作品をきっかけに、読書の幅を広げてもらえることができるなら、それは僕にとって幸せなことです。
あなたにとって、大切な一冊が見つかりますように。
引用文献:小川洋子『博士の愛した数式』(新潮文庫)53刷、21ページ、2022年、新潮社
【書籍情報】