発達障害や知的障害、言語障害の専門家として知られる川﨑聡大氏(立命館大学教授)をはじめ、子どもに関する各分野の専門家が集結! 発達障害の子が不安なく、しあわせに生きていくため、家庭・学校・地域社会でどう環境をととのえたらよいかを詳しくていねいにお伝えします。
連載第5回は、「社会・地域との関わりを大事に」の中から「『〜さえすれば』『〜を食べれば』に惑わされない」と「子どもをとりまく様々な困難とはどんなものか」を紹介します!
※本連載は『発達障害の子が羽ばたくチカラ 気になる子どもの育ちかた』から一部抜粋して構成された記事です。
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「〜さえすれば」「〜を食べれば」に惑わされない
社会における「自由」とは、単に「他からの制約がない」というだけではありません。「自分のありのままを受け入れ、それをベースに他人とつながりながら、自分らしい人生を歩む力を持つ」ことを指すのではないでしょうか。ところが、発達障害を持つ子どもたちにとって「自分らしく生きる」のは、時に非常に困難であるという現実があります。それを、私たちは社会の一員として見過ごしてはいけません。
発達障害の子どもたちは、学業や日常生活において他者との違いを突きつけられることが多いです。「なぜじっとしていられないのか」「どうして簡単な指示が理解できないのか」などといった言葉は、彼らにとって見えない壁を作り出します。彼らが抱える課題は、必ずしもその特性そのものから生じるものではなく、むしろその特性に対する社会の理解や支援の不足によることが多いのです。
偏見がもたらす重荷
私たちの社会では、多くの場合「標準」とされる枠組みから外れる人々に対して無意識の偏見が働きます。「発達障害」という言葉に含まれる「障害」という表現は、彼らが何か劣った存在であるかのような印象を与えることさえあります。こうした偏見は、子どもたちが自分に価値を見出し、前向きに自己を受容する力を阻害します。発達障害を持つ子どもたちが必要としているのは、「標準」に合わせる努力ではなく、彼ら自身のユニークな能力や特性を生かせる場と、周囲の理解と支援なのです。
偏見を減らすためには、教育や社会的な啓発が必要です。特に重要なのは、発達障害についての科学的理解を深め、その多様性を社会全体で受け入れる文化を醸成することです。教育現場や職場での研修といったものだけでなく、日常の中で小さな意識改革を積み重ねる機会が必要です。しかしながら、今の発達障害に関連するメディア、またSNSなどの情報を見ると、科学的根拠に基づいていない、専門性のない意見が多数を占めています。さらには、ブランディング費用を使って「これを食べないと」「こういうことをしないと」といった虚偽の情報を拡散し、親だけでなく本人を不安にさせ、情報や金銭を搾取している例が多数あります。そういった情報は、社会に対する偏見を拡大させます。情報化社会の負の側面が表れてしまっているのです。
自由に生きる力を支援する
発達障害の子どもたちが自由に生きるためには、まず周囲がその特性を理解し、個々のニーズに応じた環境を整えることが必要です。例えば、感覚過敏を持つ子どもに対しては、音や光の刺激を減らす工夫が有効です。また、コミュニケーションが苦手な子どもに対しては、視覚的な指示や柔軟な対応が効果を発揮することがあります。これらは、専門的知見に基づく技術が必須です。さらに、子どもたち自身が自分の特性を理解し、それを受け入れるプロセスも重要です。過度な競争を避け、各々のペースで成長を支える環境を提供することが必要ということです。もちろんこの過程を支えるためには、科学的根拠や専門的知見に基づく対応が必須です。
私たち大人は、子どもたちが偏見や制約に苦しむことなく、自分らしい人生を歩むための道を切り開く責任を負っています。単なる慈善活動ではなく、社会全体の持続可能性を高めるために必要な投資です。なぜなら、様々な子どもの多様性を受け入れる社会では、すべての人々がその能力を最大限に発揮できる環境が提供されているため、創造性や革新性を育む土壌となるからです。
発達障害を持つ子どもたちが、社会の偏見にとらわれず自由に生きるためには、私たち一人ひとりの意識と行動が問われています。偏見や誤解を乗り越え、彼らの存在を尊重し、ともに成長できる社会を築く努力を続けていかなければなりません。
そのためには、科学的根拠に基づく専門的な知見が必須です。「儲かる!」「私のセミナーを受ければよくなる」「本を買えば治る!」「大学等の研究者は現場をわかっていない、私たちの実践こそ一番正しい」などと吹聴する輩が本当に多い状態です。真の専門家が内容の妥当性をきちんと確認して販売している書籍は少なく、だからこそこの本には価値があります。
和田一郎
子どもをとりまく様々な困難とはどんなものか
2024(令和6)年版のこども家庭庁「こども白書」は、「どこかに助けてくれる人がいると思う」と考える子ども・若者の割合は97・1%だとしています。ところが、「社会生活や日常生活を円滑に送ることができている」と考えるのは51・5%でした。「私のことを誰も助けてくれない」「自分は生活をうまく送れていない」と感じている子どもたちには、どのような困りごとがあるのでしょうか。
まず児童虐待が生じる背景には、障害や病気といった子ども自身の課題、子育てに対する不安など親の課題などがあるとされています。子育てを応援するサポーターのいない孤独な子育てによるストレスが、虐待を発生させていると考えられます。子どもが療育や教育によって成長することや、親がカウンセリング等のケアにつながることだけでは解決しないのは、虐待の問題は個人の問題ではないからです。子どもの育ちを家庭だけの問題としていては、解決しないのが児童虐待という問題なのです。
ケアすることを求められる子どもたち―ヤングケアラー
子どもにとって家庭は、社会生活を送っていくための基礎を学ぶ場です。子どもは本来、「成人のパーソナリティの安定化」や「高齢者の扶養」といった機能を果たす存在ではありません。しかし近年日本においても、本来大人がするような介護・介助を家庭の中で担う子どもたちへの支援の必要性が指摘されるようになってきました。
こうした子どもたちを、「ヤングケアラー」と呼びます。「子ども・若者育成支援推進法」では、ヤングケアラーを「家族の介護その他の日常生活上の世話を過度に行っていると認められる子ども・若者」としています。
「ヤングケアラーの実態に関する調査研究」報告書では、公立中学2年生で5・7%(約17人に1人)、公立の全日制高校2年生で4・1%(約24人に1人)が「世話をしている家族がいる」と回答しています。そして、「家族の代わりに、幼いきょうだいの世話をしている」(中学校79・8%、全日制高校70・2%)が最も高い結果となっています。
家族の世話で、やりたいけれどできていないことがある子どもたちの存在も明らかになりました。発達障害がある子どもがケアラーとなっている場合もあるでしょう。そうなると「やりたいことができない」だけではなく、本人の成長に必要な学びの機会が削られたり、様々な大人や仲間と出会う機会が損なわれることも起きます。子ども期のこの損失は、将来に長く影響を及ぼします。
子ども自身が家族のケアをしていても、それがヤングケアラー状態であることに気付きにくいため、啓発も大切だとされています。一方で、「発見」に注目が集まるあまりに、発達障害のある子どものきょうだいに対して「ヤングケアラーではないのか」というまなざしを安易に向けるようなことがあってはなりません。
その他、家族のケアを担う子どもたちが相談できる場所として、ヤングケアラー同士が交流できる居場所や学校、スクールソーシャルワーカー、スクールカウンセラーなど、身近なところの専門職の役割が期待されています。しかし、子ども自身の「自分の時間が取れない」悩みは、「話を聞いてもらうこと」で解決するのでしょうか。ケアを必要とする人が増加する背景は複雑です。介護・介助を必要とする人のケアの担い手が足りないこと、ひとり親家庭を支える社会資源が少ないことなどから、ケアが家族の問題とされて見過ごされてきたことに大きな原因があるのではないでしょうか。
ケアをする人のケアのための資源が足りない!
児童虐待も、ヤングケアラーも、子ども・若者の問題というよりも、家族を支えるサービスが少なすぎるという問題が引き起こしています。子育てや高齢者の介護、障害者の介助など、ケアを家族の問題として家庭の中で解決させようとしてきた社会の側の問題だと捉える視点が必要です。そして障害や病気のある子どものケアは、「家族の絆」で乗り切る問題ではありません。家族の健康状態の変化や経済状況の変化が起きた時、それまでうまくいっていた生活が一気に困難な状況に陥ることもあります。「みんながんばっているのだから」と当事者に思わせる社会の側が変わる必要があります。そして障害や病気の知識を持った専門家の支援を受けることで、保護者は家庭を安全で安心な場所にすることができます。「家族だけで担わなくてよい状態」にするために、ケアをする人のケアができるサービスが大切です。
石田賀奈子
「気になる子ども」という言葉を入り口に、発達障害、子育て、学校との関係、社会とのつながりについて、一緒に考えていく一冊です。
この本を通じて、子どもと養育者の関係性の中だけで問題を解決しようとすることなく、少し俯瞰した視点に立って、今より少し生活をよくする手がかりが得られることを願っています。
【書籍情報】