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『モプーはヘンダ』発売記念インタビュー 伊藤亜和さん「人の手と体温で一つひとつの関係性をつくっていきたい」

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note「パパと私」に公開したエッセイが2023年父の日にXで話題となったことがきっかけとなり、文筆家としてデビューした伊藤亜和さん。デビューから約2年間で4冊の著作を刊行し、雑誌の連載やテレビ・ラジオの出演など幅広く活躍中の話題の人です。そんな伊藤さんが手がけた初めての絵本『モプーはヘンダ』が5月27日に発売されました。主人公は、チョコレート色の肌と羊のようなもこもこした髪を持つ男の子・モプー。伊藤さん自身の体験を交えながら、本作に込めた想いについてお話をうかがいます。


読み聞かせは、母の愛情を確認する時間だった

――伊藤さんの著作5冊目となる『モプーはヘンダ』。絵本の制作を手がけることになった経緯を教えてください。

 周囲の方から「やってみない?」と声をかけていただいて物語を書いたことが始まりです。私は読書家というわけではないのですが、振り返ってみると最初の読書体験はやっぱり絵本。母はあまりおしゃべりなタイプではなく、言葉を通した関わりはほかの母娘より少なかったのですが、そんな母が私のために絵本を読み聞かせてくれた時間は、母の愛情を確認する大切なひとときだったと思います。


お母さまとの思い出を語る伊藤亜和さん



――お気に入りだった絵本はありますか?

『ぐるんぱのようちえん』(西内 ミナミ 作/堀内 誠一 絵・福音館書店)です。母に何度も読んでとリクエストしたことを覚えています。大きなクッキーが出てくるシーンが好きで、みんなに受け入れてもらえなくてしょんぼりしているぐるんぱも印象に残っています。大人になって読み返してみると、ぐるんぱって自分だな、と思います。大学卒業後にフリーターをしていたとき、自分の居場所や役割が見つからなくて、バイトをかけ持ちしたり、習いごとをしたり、夜ふらふら出歩いたりしたけれど、いつも焦りや孤独を感じていました。あのころの自分は、すごく“ぐるんぱ的”だったと思います。

「ヘン」は受け取り手によって意味合いが変わる不思議な言葉

――『モプーはヘンダ』は、はじめての学校を楽しみにしている小学1年生の男の子・モプーのお話です。ともだちができて学校がたのしいモプーでしたが、次第に自分でも気が付かないもやもやを抱えていきます。絵本のテーマは、どのように生まれたのでしょうか?

 モプーのモデルは、私の弟です。小学生のころは活発で、ときには学校を脱走するほどアクティブでしたが、中学生の後半ごろから「人に見られるから学校に行きたくない」と、家にこもるようになりました。私も「人に見られる」と感じながら生きていたので、弟の言葉は強く印象に残っています。

――お話では、ともだちがモプーの「ふつう」をくすくす笑うと、謎の生き物「ヘンダ」があらわれ、「ヘンダ!ヘンダ!」と鳴き始めます。「ヘンダ」とはどんな存在なのでしょうか?

 「ヘンダ」はどこにでもあるもの。トゲトゲした形をしているけれど、悪意を持って攻撃したり、ばい菌のように害を及ぼしたりはしません。「ヘンダ」をよく見てみると、悪意ゼロの表情をしていますよね。「ちょっとくっついちゃおう」と、反射で動く存在です。




――『モプーはヘンダ』では、「ヘン」という言葉が印象的に使われていますね。

 「変」って、不思議な言葉ですよね。おもしろいというポジティブな意味もあれば、相手を傷つける悪口にもなる。受け取る側によってまったく性質が変わる言葉だと思います。「おもしろい」「怖い」「好き」「ありがとう」といった多くの言葉は、自分の意思を相手に渡すために口にするけれど、「変だね」と言った当の本人は何が変なのか明確につかめていない。とりあえず「変」という言葉をポンと置いて、「私が抱いたこの気持ちをどうにか処理して」と、もやもやを相手に丸投げしているように感じます。一方、言われた側には多大な労力がかかります。「変じゃないよ」と説明したり、「変だよね」と共感してみたり。相手が感じた「変」の正体を探して、それが果たして変なのかを検証することになります。

――伊藤さんは、モプーのように「ヘンダ」を受け取った経験はありますか?

 面と向かって言われることはないけれど、相手が自分の存在をどこか疑問に感じていると思うことはよくありました。「色黒いね」「日本語うまいね」と言われるたびに、「お父さんが外国人で」「日本育ちなんです」と説明していました。飲食店で働いていたときは、それこそ1日10回以上同じことをロボットのように話していたんじゃないかな。それを、やらなければいけないことだと思っていました。気にならない日もあれば、腹が立つ日やとても落ち込んでしまう日もあって。私と弟の日常にはそういうことが当たり前のようにあったから、『モプーはヘンダ』が生まれたのだと思います。



やさしさより、ぶつかり合える『軽率さ』に救われた

――相手の言動が同じでも、その日の調子次第で言葉の受け取り方は変化するものですよね。受け取る人のキャラクターによっても感じ方は異なりそうです。

 本来は状況や関係性によって受け取り方が異なるはずなのですが、最近は「マイクロアグレッション」(無意識のうちに相手を傷つけてしまう小さな言動)という言葉ができて、「この言葉は侮辱」「こういう態度はよくない」と、思考の道のりが整備されました。助けられた人もいるけれど、もし道を尋ねたおばあさんに「日本語上手だね」と言われたら、私は「ありがとね」と返したいと思う。でも、ネットやSNSを見ていると、それでは許されない空気を強く感じます。「あなたはよくても、そのまま放置していたら他の誰かが傷つく」「次世代への責任を果たすべき」といわれてしまう。理屈はわかりますが、それは私の気持ちではないんですよね。

――そうした論調をどう感じていますか?

 受け取る側の感情が他者の価値観によってパターン化していくと、本来は個人間で行われるはずだったコミュニケーションから、何かが失われてしまうような気がします。なんだろう……。軽率さ、かな。というのも、私は軽率な言動を含まなければ得られなかった関係性に、すごく救われた経験があるんです。

 高校時代、私に友達はいませんでした。人と行動するのが苦手で、「足長いよね」「顔ちっちゃいよね」という言葉を、「みんなと違うから、私らとは遊ばないよね」というニュアンスに受け取ってしまっていた。みんなやさしかったけれど、腫れものに触れるような、別の存在としてのやさしさをかけられているような気がしていたんです。

 大学時代に仲良くしていた男子は私を際どい表現で紹介して、SNSで炎上しかけたこともあります。でも、私は気にならなかった。それはただ私を呼んでいるだけで、本題はそこではなかったからです。彼らは私の考えやどういう人間なのかをしっかり見てくれたし、私の性格の悪さをきちんと罵倒してくれた。だから私は言い返すことができたんです。同じ強度でぶつかり、殴り合いのケンカすらできたあの時間は、私にとって救いでした。公共での振る舞いと、個人間でのコミュニケーション。このふたつを混同すると、かえって救われない人が出てくるのではないかと感じます。

人の体温が関係性をつくっていく

――『モプーはヘンダ』の後半、謎の生物「ヘンダ」がたくさんからみついて家から出られなくなったモプーに、ともだちたちは謝ります。そんなともだちにモプーも「こんなことになったのも僕のせい」と謝りますね。



 これは私の性格かもしれませんが、私が傷ついたことで、相手が申し訳なさそうにしている雰囲気が苦手なんです。誰かが私を侮辱して、それを知った夫や友達、フォロワーが代わりに怒ってくれたとしても、それを見るのがつらい。私のせいでその人たちの心が揺らいだことに、しんどくなってしまうんです。

 修学旅行の班をつくるとき、どのグループにも入れなかった私は、先生に言われて空いていたグループに入りました。大して仲良くない私が入ってこのグループが楽しい修学旅行を過ごせないんじゃないかと考えたら、自分がいないほうがいいのではないかと居た堪れなくなりました。社会全体を修学旅行のグループ分けのように感じてしまうことが、かつての私にはありました。自分の存在に罪悪感を抱いた経験がある人は、きっと少なくないはずです。

――泣いて謝るモプーに、ともだちは次々と自分の「へんなところ」を大きな声でさけびますね。

 モプーの属性からくる「生きづらさ」と、ダンゴムシと話すというような深刻ではない「へんなところ」を、同じ土俵に立たせていいものかと悩みました。でも、それは大人のものさしですよね。子どもたちにとっては、家から出られず困っているモプーを助けたいという気持ちこそが最優先。だから、あえて区切りをつけないようにしました。

――物語のラストで、モプーの生きづらさは解消されたのでしょうか?

 ラストシーンですべてが解決したわけではありません。これから先も、きっと問題は次々に出てくるでしょう。それをひとつずつ妥協したり折り合いをつけたりしながら、地味に解決していくしかないのだと思います。結局は、たくさん話すしかないんですよね。高校時代にまわりと打ち解けられなかったのは、私が心を閉ざしていたからかもしれないと今になって思います。個人と個人とのあいだにある私的な、もしかしたら攻撃も含むかもしれないやりとりは、それぞれの関係性において解決なり、受け入れるなりしていくしかない。そのためには、言葉を交わすことを恐れてはいけないなと最近思います。正解はないから、人の手で、体温で、一つひとつ関係性をつくっていく。そんな願いを込めたラストにしています。

先まわりせず、自由に感じてほしい

――表紙のそで部分には「一緒にいると、傷つけてしまうこともある。だけどそれでも、一緒に笑えば、きっと楽しい。」というメッセージが書かれています。

 大人の世界では、違う思想を持つ人を拒絶したり、ひとつの意見の相違によって関係の修復が不可能になったりすることが増えていると感じます。でも、意見は違っていても、それがすべてではないですよね。右手がつなげないなら、左手の小指くらいはつないでいられるはず。そんな気持ちであのメッセージを書きました。

――この絵本をどんなふうに楽しんでもらいたいですか?


細かいところがとにかくたのしくてかわいい、出口さんのイラストにも大注目!


 出口かずみさんの絵が本当にかわいらしくて、物語冒頭のモプーの子ども部屋の本棚など、細かなところまで素敵な仕掛けやアイデアにあふれています。そうしたところもぜひ楽しんでほしいです。この物語のなかに善悪はありません。先まわりせず、子どもも大人も自由に感じてほしいと思います。人から言われた感情ではなく、読んだ人のなかから湧き出た感情が育つような一冊になってほしいと願っています。


撮影:松本順子
取材・文:三東社


【プロフィール】

伊藤亜和

1996年横浜市生まれ。学習院大学文学部フランス語圏文化学科卒業。noteに投稿された「パパと私」というエッセイが、2023年の父の日にX(旧Twitter)上で大きな注目を集め、ジェーン・スー氏や糸井重里氏などの著名人から高い評価を受ける。これをきっかけに、文筆家としての活動が本格化する。著書は『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)、『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)、『わたしの言ってること、わかりますか。』(光文社)、『変な奴やめたい。』(ポプラ社)。2026年2月「第19回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」受賞。

 


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