虎太郎は友達のことなんてかまっていられなかった。
音楽室を飛び出して、誰もいない三階の廊下を走った。
●
虎太郎は、動揺を隠せなかった。
自分の教室に立ち寄りランドセルを乱暴に掴んだ。
しかし、それを背負う余裕も無い。
胸の前にランドセルを抱いて、校門を飛び出し、ひたすら家に向かって走る。
(隼士がなんであんなことに!?)
頭の中でその言葉がこだまする。
(もしかして、僕が『呪われた少年』の名前を言ったから?)
虎太郎は走る。
(『呪われた少年』の名前を口にしたのは僕なのに、なんで、隼士が?)
理解できないことは他にもあった。
(隼士にはピアノの音が聞こえないってどういうこと?)
様々な不安と恐怖がぐるぐると渦巻く。
虎太郎が走る道に、人の姿が少ないのでますます不安と恐怖が募る。
児童たちのほとんどはもう家に帰ってしまったのだ。
(早く家に帰りたい!)
虎太郎は全速力で走り出した。
やがて人通りの多い商店街に入った。
人がいっぱい居るので気持ちが和らいだ。
ここを抜ければ虎太郎の家だ。
(もうすぐ家に帰れる)
虎太郎の両親は共働きなので、この時間に家に帰るとひとりなのは分かっていた。
それでも家に帰れば安心できる。
フフフッ!
突然、不気味な男の笑い声が耳に入ってきた。
「え!? なに?」
足がすくんで立ち止まった虎太郎はあたりを見回す。
フフフッ!
その笑い声は足元から聞こえた。
「え!?」
見おろすと、そこにはこちらを睨みつける男の顔があった。
ベートーヴェンの肖像画!
「な、なんで、こんなところに!?」
思わず叫んだ虎太郎を通行人たちが一斉に見た。
虎太郎はその視線に気づいて周囲を見る。
ビックリして自分を見つめる商店街の人々の視線に、虎太郎はむしろ少し冷静になった。
再び足元を見ると、そこには銀行をPRするチラシが落ちていた。
人気の男性タレントが明るくほほ笑んでいる。
ベートーヴェンじゃない。
(目の錯覚だったんだ)
さっき起きたことを気にしすぎたと虎太郎は思った。
そして、再び足早に家に向かった。
●
ガチャ!
虎太郎は家の鍵で玄関扉を開けた。
(ただの勘違いだったのかな……)
玄関に入って扉を閉めた虎太郎は、ホッとする。
家の中は薄暗い。
やはり母親はまだパートから帰ってきていない。
虎太郎は玄関の明かりを点けると、二階の自分の部屋に向かった。
自分の部屋のベッドの上にランドセルを投げ出す。
ベッドに腰掛け、今、体験してきたことを頭の中で整理しようと思った。
自分が『呪われた少年』の名前を声にして言ってしまったのに、隼士の様子がおかしくなった。
それが納得できなかったからだ。
でも、商店街でチラシがベートーヴェンの肖像画に見えたのである。
(え? つまり、やっぱり僕が呪われてるから、周りがベートーヴェンに見えちゃうの?)
しかし、幻覚を見たにしてはあまりにリアルすぎる。
虎太郎は両手の平で頭をギュッと握りしめる。
フフフッ!
不気味な男の笑い声が聞こえた。
虎太郎はハッとして部屋を見回した。
アニメやマンガのポスターのキャラクターと目が合った。
それらから声が聞こえている。
フフフッ!
フ、フフッ、フフッフフッ!
フフ、フフ、フッ!
笑い声が虎太郎を取り囲んだ。
「なんなの! やめて!」
ポスターのキャラクターは皆、いつの間にか毛先のカールした銀色の髪の男に変わっていた。
全部がベートーヴェンになっていた。
同じいくつものベートーヴェンの顔、顔、顔。
それらの目が眼光鋭く睨みつけてくる。
ジロリ!
ジロ、ジロリ!
ジロ、ジロ、ジロ、ジロ、ジロリッ!
「わぁぁぁぁ!」
虎太郎は部屋の扉を開けて逃げだそうとした。
グイッ!
誰かが虎太郎の肩を掴んだ。
「ひぃ!」
振り向くとベートーヴェンたちがポスターの中から腕を伸ばしてきていた。
「ああああ! 助けてぇ!」
虎太郎は身体をねじり、腕を振り回した。
肩を掴むベートーヴェンの手がゆるんだ。
バンッ!
虎太郎は、自分の部屋の扉を勢いよく開けた。
ドドドドッ!
あわてて階段を駆け下りる。
家から逃げだそうと玄関に向かった。
玄関扉の鍵を開けようとして指でつまもうとしたが──、
ガチャ!
鍵が勝手に開く。
ビクッと虎太郎は後退った。
扉が開いて毛先のカールした長い髪の人影が入ってきた。
「わぁ!」
悲鳴を上げる虎太郎。
「ただいま」
母親だった。
虎太郎の母親は毛先をカールさせているのだ。
「お母さんっ!」
虎太郎は嬉しさのあまり母親に飛びついた。
「どうしたの?」
「お母さん! 良かった! 助かった!」
虎太郎は母親の胸に顔を埋める。
「なに? どうしたのよ?」
母親は目を白黒させるばかりだ。