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【「今日って何の日!?」】3月10日は東海道・山陽新幹線全通記念日です


3月10日は東海道・山陽新幹線全通記念日です。1975年(昭和50年)のこの日、「ひかりは西へ」のキャッチフレーズのもと、山陽新幹線・岡山駅―博多駅間が延伸開業し、山陽新幹線が全線開業しました。これに伴って、東京駅―博多駅間の新幹線が全線開通しました。

新幹線の路線の始まりは1964年10月1日に開業した東京―新大阪間の「東海道新幹線」で、世界初の高速鉄道であり、日本の新幹線としては最古の歴史を持ちます。

その新幹線を完成させた男、島秀雄(しま・ひでお)はご存じでしょうか。今回は、鉄道技師だった父親が実現できなかった夢の鉄道として、東海道新幹線を完成させた島秀雄について紹介します。

秀雄は1901年5月20日、大阪に生まれ、少年時代は東京で過ごしました。



父が熱心な勉強家で、それを見た秀雄は自然と勉強をするようになります。
父に連れられて機関車や自動車、飛行機などさまざまな乗り物に触れてきた秀雄は将来への意思も固めていきます。



その後、秀雄は鉄道省(戦前の日本で、鉄道に関する業務を管轄していた国家行政機関)で蒸気機関車の整備を学び、機関助手として運転の仕方も学びます。
1927年、25歳の時には秘書として欧米の視察に付いていきます。



帰国後には蒸気機関車の設計に参加し、1930年には初めて設計責任者として関わっていきました。



失敗をしながらも、取り組んでいく秀雄。そして1936年、34歳の若さで機関車の名機といわれるD51形(通称:デゴイチ)を完成させました。

また、世界で幕開けしている車社会の始まりを体験し、鉄道の生き残る道を研究するため、秀雄は各国を渡り歩きます。1937年に帰国したのち、秀雄に与えられた任務は「弾丸列車計画」でした。



計画を進めるために委員会が設けられ、委員長は島安次郎(秀雄の父)が務めます。



設計図も順調に進み、あとは実際に制作するのみでしたが…



日本は戦争で物資を運ぶための列車が多く必要となり、新線の建設どころではなくなりました。

1945年、終戦を向かえ翌年には父・安次郎も亡くなります。
1949年、運輸省鉄道総局が公社化し、日本国有鉄道(国鉄・現在のJR)に。そのとき秀雄は48歳になっていました。しかし2年後、電車火災事故がきっかけで、国鉄を辞めてしまいます。

それから4年後…






第4代国鉄総裁・十河信二の熱意に押されるような形で、日本の未来のために国鉄に戻ることを決意します。弾丸列車計画時に線路建設を担当していた大石重成も呼び寄せ、国鉄総裁の十河、車両設計の秀雄、建設担当の大石という「新幹線三羽ガラス」が集結し、計画がスタートしました。



部下のアイデアなども取り入れながら、安全な新幹線を作ることに努めます。
そしてついに…



夢の超特急・新幹線が完成しました。線路建設はルート確定や用地買収などの壁が立ちはだかりましたが、1962年2月にルートが確定。当初の予定より半年遅れとなりましたが、1964年10月1日に開業の日を迎えました。

しかし、新幹線建設は予算オーバーとなり、その責任を問われて十河総裁の再任は無くなり、大石も辞任、秀雄は周囲からの強い引き留めはありましたが、2人に続くように国鉄を去っていきました。

その後、秀雄は宇宙開発事業団の理事長に就任。1977年には静止気象衛星「ひまわり」が打ち上げられました。同年、76歳の時に理事長を退任します。



1998年3月18日に島秀雄は亡くなりました。96歳でした。

秀雄たちが作った新幹線は、その後も新型車両が開発され、日本の新幹線の安全性・高速性は世界に広く認められました。

角川まんが学習シリーズ まんが人物伝『島 秀雄 新幹線をつくった男』では、蒸気機関車から人工衛星まで、技術開発に捧げた秀雄の一生が詳しく書かれています。また、当時は想像もできなかった「夢の超特急」を支えた技術を図解で解説しているので、実物と見比べながら楽しく学んでみましょう。


監修:小野田 滋監修:高橋 団吉カバー・表紙:大和田 秀樹

定価
935円(本体850円+税)
発売日
サイズ
四六判
ISBN
9784041051498

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