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徳川家康(とくがわ・いえやす)がひらいた「江戸幕府(えどばくふ)」は、約260年もの間、戦争がほとんどなかった時代。わたしたちが暮らす現代にもつながる、「平和のいしずえ」をきずきました。
しかし、「平和の世」までの道のりは、大ピンチの連続!? はじめは失敗ばかりで……?
家族も城もうしない、敵の「人質」としてすごした幼少期から、織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)との出会い、そして天下分け目の「関ヶ原(せきがはら)の戦い」まで。
これを読めば、家康について、楽しく、そして深くわかることまちがいなし!(全8回予定)
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ときは生き残りをかけた戦国時代(せんごくじだい)。
三河(みかわ)で暮らしていた竹千代(たけちよ)——のちの”徳川家康”は、家族も城も失った。
となりの国の「今川家(いまがわけ)」の人質として、差し出されることになったけれど……?
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浜辺へと向かう細道――。
「竹千代様! ごらんなされ、船が見えましたぞ!」
そう声をかけられ、深い湖のような目をした少年――幼い竹千代(のちの徳川家康)は、のろのろと顔を上げた。
声をかけたのは、隣を歩いている鳥居忠吉(とりいただよし)だ。松平家(まつだいらけ)の家臣(かしん)である忠吉は、岡崎(おかざき)の城を出てからずっと元気のない竹千代を心配して、なにかと話しかけてくれる。
竹千代は松平家の大切な跡取りだ。忠吉の他にも何人かお供がいっしょで、守ってくれている。
うつむきながら歩いていても、静かな波音と潮風には気づいていた。
よく晴れた空――。
目の前には渥美半島(あつんみはんとう)の浜辺が広がり、三河湾(みかわわん)のおだやかな海がキラキラと輝いている。
先に見える小さな港には、船が待っていた。
だが、竹千代の心は曇り空のままだった。
海から目をそらして、生まれ育った城のある方角をふり返る。すでに岡崎は遠く、見えるはずもないのに。
逃げ出して岡崎城に帰りたい! でも、そんなことはできない。私が駿府(すんぷ)にいかないと、松平家は滅ぼされてしまうかもしれないのだから……。
父――松平広忠(ひろただ)が、そう言っていた。
それに……と、竹千代は、またうつむいた。
たとえ城に帰っても、母上はもう岡崎の城にはいない……。
母上に会いたいなあ……。
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「先代のころは松平家も勢いがありました。しかし今の岡崎は、織田(おだ)と今川(いまがわ)にはさまれ、苦しいかぎり……」
竹千代の祖父の松平清康(きよやす)は、三河に領地を広げていた。だがその途中で、尾張(おわり)で力をつけた織田信秀との戦いで部下に裏切られ、若くして亡くなった。
その後、松平家は同じ一族でも尾張の織田につくものと、駿府の今川につくものとに分かれ、だれがいつ裏切ってどちらにつくかもわからなくなっていた。
そんな中、竹千代の父・広忠が頼った今川義元(いまがわよしもと)は、この辺りでもっとも力のある戦国大名だった。
助けてもらう代わり、広忠は義元の家来になるのだ。命令に従い、決して裏切らない――その証拠として息子の竹千代を人質に差し出す。父が約束を破れば、竹千代は殺される。人質とはそういうものだ。
竹千代は幼くても武士の子だ。もちろん、その覚悟をして城を出てきた。
これもまた、「戦国の世の常(つね)」ということなのだろう……。
砂浜を歩きながら、竹千代がふうっとため息をついたとき、港のほうから大きな笑い声が響いた。
「松平の若君はお疲れかな? ここからは、この康光がお送りしよう!」
あごひげをゆらして笑っているのは、大勢の手下を連れた大柄の武将――戸田康光(とだやすみつ)だ。
*******
康光は、ゆらゆらとゆれる渡し板を渡って船に乗りこむ。
漁師の使う小舟ではなく、荷物や大勢の人を運ぶ、それなりに大きな帆掛け船だ。
帆を張って風を受けて走るが、漕ぎ進むこともできる。船上には、すでに多くの水夫たちが櫂を手にして船出の合図を待っていた。
じっと観察していた竹千代は、「なにか変だ……」と気づいた。
康光の家来たちも、こっそりと船に乗ってきていたからだ。
浜で休んでいるのは、岡崎からきた竹千代のお供だけ……。
さっき康光は、忠吉に「用意がすむまで休め」と言っていたのでは……?
「もう出発するのですか?」
抱き上げられたまま聞くと、康光は笑ってうなずいた。
「気づいたか。やはり、かしこい子だ」
康光は貼りついたような笑顔のまま、恐ろしい力で竹千代をかかえこんでいた。
渡し板はとっくにはずされ、水夫たちは力強く船を漕ぎはじめている。
まさか――。
船が港の桟橋からするすると離れていく――。
間違いない! 自分だけさらわれて――。
こ、これは、裏切り!?
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「じい!」
「た、竹千代様!」
戸田家の裏切りに気づいた忠吉の声が響く。
お供たちが海に飛びこんで、「船を戻せ!」とさけんでいたが、すでに遅かった。
船はすべるように沖へと向かい、浜にいる忠吉たちの姿はどんどん小さくなっていく。
竹千代は必死にもがいた。
せめて、海へ飛びこめば……! そうも思ったが、あっという間に康光の家来にしばり上げられてしまう。
「なぜです!? なぜこんなことを!?」
「わからんのか? おまえを駿府に連れていっても、『ご苦労だった』でおしまいだが、尾張に連れていけば織田の信秀殿(のぶひでどの)が大金で買い取ってくれる」
そんな! 義理とはいえ、自分の孫を敵に差し出すのか!?
「この裏切り者っ!」
竹千代がいくらどなったところで、康光は顔色ひとつ変えなかった。
裏切りなんてなんとも思っていないのだ。これもまた「戦国の常」なのだ。
船は針路を変え、駿府とは逆に三河湾を北西へと向かっていった。
味方に裏切られ、敵に売られる――。
思いもよらぬ苦難に、うちひしがれる幼い竹千代――。
だが、このピンチは、竹千代の人生を大きく変える出会いにつながっていた。
★第2回の配信は、1月14日を予定しています。
★もっとくわしく★
竹千代が生まれた一五四〇年ごろの日本は、世の中が混乱し、「戦国の世」が続いていました。
二百年ほど前に室町幕府(むろまちばくふ)が開かれ、足利家(あしかがけ)がリーダーとなって、全国の武士をまとめてきたが、すっかり力をなくしてしまったのです。
それどころか、代々の将軍を利用してきた各国の大名たちでさえ、京都で起こった「応仁の乱(おうにんのらん)」と呼ばれる長い戦乱で力を失っていました。
各地に住んでいる武士たちは、身分の高い主人をたおして土地をうばい、勝手に領主を名乗るようになりました。こうした領主は「戦国大名(だいみょう)」と呼ばれ、お互いの領地を力ずくで奪い合うようになっていたのです。