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※本記事内に出てくる「謎」の文字は、正しくは「二点しんにょう」
ちょうど今「謎解きカフェ」に来たお客さん、雨が降ってるのに、かさを持っていないみたい。かさ、どうしたんでしょうか?
※第1~4回を読む
3. マイ・ラブリー・アンブレラ
【問題編】
「やれやれ、ひどい目にあった」
ハンカチで肩を拭きながらカフェに入ってきたのは、井上さん——アガサ・クリスティが大好きなピアノの先生——だった。
朝から、雨が降ったりやんだりの日曜日。いっとき弱まっていた雨足がまた強くなって、通りの向かいの公園を白く煙らせている。
「あら、大変」
ママがタオルを持って駆け寄り、頭やバッグを拭くのを手伝う。
「傘、差していらっしゃらなかったんですか?」
「それがね、話すと長くなるんだけど、まあ簡単に言うと傘を取り違えられちゃったみたいなの。今日はついてなくって……」
井上さんはそこまで言ってから、「いい匂い! 何かな、マーマレード?」と、鼻を上に向けてクンクンさせた。
「惜しい! いい夏みかんが入ったんで、実を生のまま使ったタルトにしたんです」
そう言いながら、ママは井上さんをカウンター席へと案内する。
「うわあ、美味しそう! じゃあ、今日はそれをいただこうかな」
「それが、ごめんなさい、タルトはもう売り切れてしまって……」
こんな雨の日はお客さんの足も遠のきそうなものだけど、カフェは意外と混んでいて、朝一番にママが作った宝石みたいに綺麗なタルトは午前中のうちに売り切れてしまった。フルーツを使ったタルトは日持ちがしないから、夕方まで残ったものは、私たちがおやつに食べてもいいことになってるんだけど、残念なことになかなか売れ残らないんだよね。
「ああ、ほらね、今日は本当についてない」
井上さんはカウンターの内側のシロちゃんに、スコーンとアッサムティーを注文してから、「傘の取り違え事件」について話し始めた。
リンは部活でいなくて、本日のカフェのスタッフはママ、パパ、シロちゃん、私の四人だけど、忙しいランチタイムが終わってパパは今休憩中だ。
「雨だから、今日は家で本を読んでいたかったの。でも、図書館の返却期限がきてて、仕方なく傘をさして出かけたのよ。昔の教え子にもらった、お気に入りの傘でね、閉じたところは普通の黒い紳士用の長傘みたいなんだけど、開くと内側にピアノの鍵盤とショパンの『雨だれ』の楽譜がプリントされてるの」
その傘なら知ってる。いつだったか、井上さんがカフェの傘立てに忘れて行ったのを裏通りにあるピアノ教室まで届けに行ったことがある。とっても大事にしている傘らしくて、何度も何度もお礼を言われた。
「紫陽花が見頃だって聞いたから、少し遠回りして西大通りを通って行ったの。西大通りの歩道には、紫陽花の植え込みがずーっと続いてて、『あじさい通り』とも呼ばれてるでしょ。確かに花盛りで、おまけに途中で雨が上がって陽が差してきて、とても綺麗だったな」
話を聞きながら、私はスコーンをオーブンに入れて温め、クロテッドクリームとジャムを用意。シロちゃんはお湯を沸かして紅茶を淹れる準備をする。
「図書館に着いて、傘は入り口のところの大きな傘立てに立てて——その時そこにあったのは、子どもの傘かビニール傘か明るい色の婦人用の傘ばっかりで、私のと似た傘はなかったはず。傘立ての前の床が濡れてて、職員の人がモップをかけながら『滑るので気をつけてください』って声をかけてくれた。中に入って本を返して、続編を借りようとしたら貸し出し中でがっかりしたの。七海左舷の『一九六〇』が面白かったから、続きが読みたかったのにね」
七海左舷は、アガサ・クリスティの再来などと言われる人気のミステリー作家だ。古本屋にあったものはみんな読んでしまったけれど、無い本ももちろんあって、私も市立図書館で借りたことがある。カフェから北西一キロメートルくらいのところにある図書館の建物はとても大きくて、一階には入り口が二箇所あり、その真ん中のホールではよく園児や小学生の絵画展をやっている。学習室のある二階は、渡り廊下で隣の市民ホールとつながっている。
「何も借りずに図書館を出て、……あ、もちろん傘はちゃんと忘れずに持ったわよ。傘立てにあった黒い傘は一本だけで間違えようもなかったしね。そうそう、その時、床がびっしょり濡れてて、危なく滑って転びそうになっちゃった。後ろから『大丈夫ですか?』って、さっきの職員さんがやってきてまたモップをかけ始めたんで、雨の日は何度もモップをかけなきゃいけなくて大変ねって思った。それから、隣の市民ホールにくっついてる花屋さん——ええと、『ローズガーデン』に行ったの」
「ローズガーデン」は、市民ホールの建物内にある花屋さんで、ホールの中からも外からも入れるようになっている。ホールで発表会なんかがある時、花束を買うのに便利なお店だ。
「前からアガサ・クリスティの『杉の柩』に出てくる『ゼフィリーヌ・ドルーアン』っていうバラを育ててみたいと思ってて……」
「『ゼフィリーヌ・ドルーアン』って、蔓性のバラでしたっけ?」と、ママが聞く。
「そう、香りが良いピンクのバラ。苗を探してるんだけど、ホームセンターでも扱ってないし、なかなか見つからないのよね。『ローズガーデン』の入り口にある傘立ては空っぽで、そこに自分の傘を立ててお店に入った。ちょうど誰もお客さんがいなくて、レジのところにいた店長さんに苗の取り寄せができるか聞いてみたんだけど、『そういうことはやっていません』って言われちゃった。だから、またがっかりして、傘立てから傘を取って外に出たの」
シロちゃんがポットにアッサムの茶葉を入れ、勢いよくお湯を注ぐ。きっちり四分蒸らしてから、茶漉しを通してサーブ用のポットにうつし、温めておいたカップと一緒に井上さんの前に置く。「お待たせしました」と、私もスコーンの乗ったお皿をそっとカップの横に据える。
「ありがと、いただきます」
井上さんはカップに紅茶を注いで一口飲み、クリームとイチゴジャムをたっぷりのせたスコーンを頬張る。
「うん美味しい。やっぱりここのスコーンは最高」
ひとしきり食べたあと、井上さんの話が再開する。
「花屋さんを出た時、雨がまた降りだしたんで、傘をさそうかと思ったんだけど、そうだ、プリンを買っていこうと思って、通りの向かいのお店に寄ったの。ほら、ホールから地下道を通って道を渡ると、ちょうど出口のところにある……」
「ああ『四葉堂』ですね」と、ママ。
「四葉堂」は図書館と市民ホールの向かい側、こんなふうに、市役所と総合病院の大きな建物に挟まれてちょこんと建つプリン専門店だ。
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「しあわせのたまご」っていう、卵の殻に入ったプリンが人気で、私も何度か食べたことがある。
「そうそう、その『四葉堂』」
井上さんが頷く。
「お店の外にクローバー模様の傘立てがあって、そこに傘が一本だけ立ててあったの。畳んだところは私のとよく似た黒い紳士傘ね。私もその横に自分の傘を立てて、お店の中に入ると、カウンターの前に大きなピンクの花束を抱えたビジネススーツの若い男性のお客さんがいたから、その後ろに並んで順番を待ったの。で、その人がプリンを六個も買って出て行ったあと、私が『しあわせのたまごを三つください』ってお店の人に言ったら、『すみません、たった今売り切れました』って言われちゃった」
「他の味のはなかったんですか?」
ママが尋ねる。
「抹茶味とか、チョコレート味とかの普通のプリンカップに入ったのはまだあったんだけど、どうしてもあの卵の殻入りのプレーンなカラメルプリンが食べたかったの」
その気持ちはすごくわかる。「しあわせのたまご」は外容器も卵ケースの形をしていて、とても可愛い。
「しょうがなく、『じゃあ、いいです』って、また何も買わずにお店を出たの。私の後に来たお客さんはいなかったから、傘立てにはもちろん傘が一本だけ残っていた。それを持って歩き始めた時は雨がやんでたんだけど、すぐにまた降り出したから傘を開いたの。そしたらなんと、傘の内側も真っ黒で、あ、傘を取り違えられちゃった! って慌てて辺りを見回すと、さっきの花束を持った男の人が総合病院の方に歩いて行くのが見えたの。それで必死に追いかけて、病院の入り口のところでなんとか追いついて、『傘、間違えてませんか?』って聞いたわけ」
井上さんは紅茶を一口飲んでまた話を続ける。
「その人はびっくりしたみたいだったけど、畳んだまま手に持っていた傘を見て、『いや、これ僕のですよ。持ち手にあるこの傷、うちの犬がかじった痕だから間違えっこないです』って言ったの。確かにその人の言う通り、傘の持ち手に歯形みたいなのがついてた。だけど、『四葉堂』の傘立てには二本しか傘が入ってなくて、そのうちの一本がさっき私が開いてみた内側も黒い傘なんだから、彼の持ってるもう一本が私の傘じゃないとおかしいでしょ?」
「そうですね」と、ママが頷く。
「だから『でもその傘の内側に模様があるはず』って私が食い下がると、その人は『内側ですか?』って傘を開いて見せてくれたの。……そしたら信じられないことに、その傘の内側も真っ黒だったのよ!」
井上さん大きく息をつくと、サーブ用のポットから自分で紅茶のおかわりを注いだ。
「まるで手品かなんかで騙されたみたいで、どういうこと?? って思いながらも、とにかくその人に謝って、それから『四葉堂』に戻って、『もし、傘を取り違えたという人がこの傘を取りに戻って来たら連絡ください』って、傘を預けて、電話番号も渡して、あとは、雨に濡れて来たってわけ。ね、ついてないでしょう?」
本当についてなくて気の毒だ。本やプリンやバラの苗は仕方ないけど、せめて大事な傘だけは見つかるといいなあ。
私はもう一度、井上さんが行った場所を順に思い浮かべた。家→図書館→ローズガーデン(市民ホール)→四葉堂。
図書館と市民ホールはすぐ隣だし、市民ホールから四葉堂へは、地下道を通れば雨に濡れずに行ける。人が傘を忘れやすいのは、雨が止んだ時とそれからえっと……。
「その病院に向かった男の人、本当に『四葉堂』にいたお客さんと同一人物でしたか?」
シロちゃんがそう尋ねる。確かに、人違いだった可能性もあるかも。
「うーん、ずっと目を離さずに見てたわけじゃないから、絶対とは言えないけど、もし、あの時、近くにもう一人、ピンクの花束と『四葉堂』の手提げ袋と黒い傘を持ったビジネススーツの若い男の人がいたら、間違えたかもしれない。でもねえ……」
「それだけ特徴が合えば、多分間違えっこないですね」と、シロちゃん。
「井上さんがプリンを買おうとしてる時に、もう一人お客さんが入ろうとして、傘立てに傘を入れたんだけど、やっぱり入るのをやめて間違った傘を持って行ってしまったとか? だってほら、ちょうどそのタイミングでプリンが売り切れになったんでしょう?」と、ママが言う。
「私もそれしか説明ができないと思ってるの。だから、その人が間違いに気づいて『四葉堂』に戻ってくれるのに期待するしかないけど、どうかな? 次の雨の日まで気づかないかもしれないし」
うーん、確かにもう一人お客さんがいて傘を取り違えたのかもしれないけど、その可能性は随分低いような気がする。それよりももっとずっと可能性が高そうなのは……。
「あの、もしかしたら……」
あんまり自信があるわけじゃないけど、私は話しだした。
特別ためしよみはここまで!
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