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三十分も経たないうちに奥からゼペットのおっちゃんが出てきた。
「待たせたね、二人とも」
「どうだった?」
「残念だが、この時計はもう寿命だね」
おっちゃんはゆっくりと首を振った。
「部品を交換したり、なんとかできないかと思ったんだが、針もガラスもずいぶん傷んでいるし、古くて代替の部品もない。長いこと使われてたみたいだから、直すのはもうできないんじゃないかな」
「ボロクソやんけ」
「事実のみを伝えたはずだが……」
「もうちょっと言葉には気を使いなさいよ。女の子はね、繊細なんすよ。美少女は特にね。私とか」
「ははっ」
「何ワロとんねん」
そんな軽口でやりあっていると「やっぱり、そうですか……」と叱られた犬のようにフィーネは視線を落とし、その姿を見た私たちは黙った。
「この時計、おじいちゃんの形見だったから、使えなくなるのは寂しいな」
そこで思い出す。
フィーネのはめていた時計は、彼女が大好きだった亡き祖父から譲り受けたものだと。
彼女の祖父はとても温厚な優しい人で、私たちがまだ幼い頃に亡くなった。その葬儀には、私とお師匠様も参列していた。
祖父の亡骸にすがりつくように彼女がわんわん泣いていたのをよく覚えている。
あんな気持ちのいい泣きっぷりは人生の中でもそう見ることはないだろう。
「この時計、君が大切にしてくれたのがよくわかったよ」
フィーネの時計を見て、ゼペットのおっちゃんは静かに語る。
「何度も傷を修復したあとがあったし、バンドもつけ替えられてる。本来ならずっと前に寿命だったものが、ここまで生きられた。この時計はきっと幸せだったよ。君が持ち主で良かったって思ってくれているさ」
「……ありがとうございます」
「不思議なものでね。長年時計に触れてると、とうに限界を迎えているのに何故か動いているものと巡り合うことがあるんだ。きっとそれは、大切にしてくれた人の想いに時計が応えてくれたんだろうね。君の時計も、同じだと思うよ」
「人の想いに、時計が応える……」
今まで私は、ものにこだわるという感覚がよくわかっていなかった。私には、過去が宿るような思い出の品がないからだ。
でも、フィーネを見ていると、少しだけものに想いを宿す感覚がわかるような気がした。
大好きだった祖父の遺品であるこの時計は、彼女にとっていわばお守りのようなもので。
どんな辛い時でも、悲しい時でも、祖父を近くに感じられる代物だったのだ。
「時計はもう使えないけど、記念に保管しておくってのもありだよね……」
フィーネはそう言って微笑むも、その表情はどこか陰っていた。
きっと彼女は、自分に言い聞かせているんだ。
仕方ない、諦めないとって。
じゃあ、私がしてあげられることってなんだろう。
私は少し考えると、やがてフィーネの肩をポンと叩いた。
「フィーネちゃんや」
「どうしたの?」
「一つ、提案があんだけど」
「追悼?」
枯れ葉が落ち、木の葉が集う広場。木の枝で地面に魔法陣を描く私を見て、フィーネは目をパチクリさせる。
「古い魔女が伝統的に行ってきた、追悼の儀なんだけどさ。長く働いてくれたものに感謝を込めて、ゆっくり休んでくださいって言ってあげるんだよ。フィーネの時計に宿っていた精霊は、力を使い果たして永い眠りについてる。だから、ゆっくり休めるよう送ってあげるんだ。そのための儀式」
「そんなのあるんだ」
「万物には精霊が宿ってるってのが魔女や魔法使いの考え方だからね。魔法で力を借りることもあるし、役目を終えた精霊に感謝を捧げるのは礼儀みたいなもん」
「ちょっと宗教チックだね」
「まぁ魔法なんて宗教観の塊みたいなものだから……」
小さな円を描き、その円を囲むように更に大きな円を描く。
次に円と円の間に、呪文を構築する。一節ごとに区切りを入れて、意味をもたせる。これは詠唱とも連鎖する。
地面に描く魔法陣を構築していると、物珍しそうにフィーネが覗き込んできた。
「こういうのに使う図形ってなんか綺麗だよね」
「ルーン文字のこと?」
「ルーン文字って言うんだ?」
ルーン文字は線と線を組み合わせた特殊な文字だ。一字一字に意味が込められており、占いなどにも用いられる。
今と違って、昔の人はもっともっと自然と密接に暮らしていた。そうした自然と共にある文明が生んだ古い文字には、理に働きかける力がある。
「こういうのって全部覚えてるの?」
「十二星座の記号とか、ルーン文字とか、覚えやすいのは頭に入ってるかな。テーベ文字とかはとりあえず魔法に使うやつだけ丸暗記。意味はわかってない」
「へぇえ……」
フィーネは何やら感心した様子で私を見た。その視線が、妙に気になる。
「なに」
「いや、メグって実は意外と頭いいよね」
「実は? 意外と? 殴るよ?」
そうこうしているうちに、魔法陣の構築が完了した。
私は魔法陣の中心にハンカチを敷くと、その上にフィーネの時計を置く。
「どうするの? これ。燃やしちゃったりしないよね?」
「大丈夫だよ。私が親友の大切なものにそんなことするように見える?」
「見えるから言ってるんだけど……。親友にわけわからない薬飲ませようとするし」
「さぁさぁさぁ! 無駄話してないで始めるよっ!」
私がパチンと指で合図すると、カーバンクルが肩から飛び降り、空を飛んでいたシロフクロウが舞い降りてきた。
二匹の使い魔が、私の対面──正三角形を描くような位置取りで魔法陣を囲む。
こうすることで私たちを媒介に、均等に魔力が巡るのだ。
私が魔法陣に手をかざすと、辺りが薄暗くなり、陣に描かれた文字がボゥッと輝いた。魔力反応だ。
私はその陣に向かって、十二節の詠唱を開始する。
「優しく働き者の精霊の魂よ 永久の眠りの中で ただ静かに巡れ巡れ」
私が呪文を唱えると、魔法陣を囲むように木の葉が風に乗って集まってくる。
まるで、ダンスしているみたいだ。
「永遠の感謝と永年の労いを ここに捧げん」
すると腕時計がほのかな輝きに包まれ、中から光の球のようなものが出てきた。小さな太陽のように、美しく清らかな光の球。
それは役割を終えた精霊の姿だった。
「我 謝辞をもって彼の者を理へ還さん」
光の球は、高く高く天に昇り始め、その周囲を舞い上がった木の葉が包み込む。
光を中心に、葉っぱたちは舞い踊り、風は緩やかに吹き、穏やかな公園を賑やかに駆け巡る。
幻想的な光景に「わぁ……」とフィーネが感嘆の声を出した。
「願わくば また理を巡り 我が袂まで戻らんことを祈り 乞い願う」
光が大きく膨らむ。
フィナーレだ。
「巡れ」
その瞬間、光は音も立てずに大きく爆ぜ、四方八方へと拡散した。
拡散した光は、地面に、木々に、そして天に広がり、やがてその姿を静かに消す。
薄暗かった辺りが再び明るくなり、音とざわめきが舞い戻ってくる。
「お、終わったの?」
「うん」
「どうなったの?」
「時計の中にいた精霊を理に還した。こうやって理に還した精霊は、また生まれ変わって新たな精霊となり、ものに宿り、戻ってきてくれる」
私はそう言うとニッと笑みを浮かべた。
「形は変わるかもしんないけど、フィーネちゃんが大好きなおじいちゃんと、また一緒にいられるようにね」
「メグ……」
死んだ人は蘇らないし、寿命を終えたものはもう動かない。
でも巡り巡って、別の形でまた出会うことはできる。
それが理の流れだと、いつかお師匠様が言っていた。
「ねぇフィーネ。時計はもう動かなくなっちゃったけどさ、そこに宿る人の想いは消えないんじゃないかな」
私はフィーネを見る。
「あの時計の精霊の中には、フィーネとおじいちゃんの記憶がつまってる。だから、いつかまた、フィーネのとこに帰ってきてくれるよ。あの精霊にとっても、フィーネとおじいちゃんと過ごした時間は、大切だったはずだから」
フィーネは唇を震わせ。
「うん、ありがとう……!」
静かな涙を、頰から流した。
流れた涙は一粒の結晶となり、ビンへ落ちた。
「自分でも不思議なくらい自然と涙が出てきたな」
街に戻る道中、肩に乗ったカーバンクルを撫でていると、隣でフィーネが口を開いた。
「なんかあの光を見ていてね、グワッといろいろなこと、思い出しちゃって」
「おじいちゃんとのこと?」
「うん。一緒に遊んだことや、ごはん食べたこと、怪我したら頭を撫でてくれたこと。いろんな光景が一気に浮かんできた」
「相変わらずのおじいちゃんっ子だ」
「時計から出てきたあの光……何か優しい光だったね」
「んだな」
あの精霊はきっと、二人分の人生を抱えていたんだ。
フィーネと、彼女の祖父の、二人分の人生を。
「私、ちょっと時計買っていこうかな」
ゼペットのおっちゃんの時計屋まで戻ってきた時、フィーネは足を止めて、店内を眺めた。
「お、新しいやつ? いいじゃんいいじゃん」
「うん。私にピッタリの精霊教えてよ」
「もっちろん! 幸運を呼ぶやつ選んだげるよ」
フィーネなら、きっともう大丈夫。
だって彼女は私の親友なのだから。