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お師匠様は今日忙しいと言っていたけれど、フィーネの頼みならば話は別だ。幼き頃からの大親友のお願い、断っては女が廃る。
私が意を決してコンコンとドアをノックすると、「入りな」と穏やかな声でお師匠様は答えた。怒られるかと思っていたけど、杞憂だったみたいだ。
「失礼します」
部屋の中に入ると、お師匠様は大量の書類や書籍に囲まれた状態で、何やら事務作業をしていた。机の上には紙が一枚。魔術式を構築していたのかもしれない。
「お師匠様。少しお話があるんですが……」
「フィーネだろう。話してみな」
一体いつから気付いていたのか、お師匠様はドアの外からおずおずと中を覗くフィーネに視線を向ける。視線を受けたフィーネは「は、はい!」と慌てて部屋に入ってきた。
「ファ、ファウスト様。お、お忙しい時に申しわけありません」
「いいから。さっさと要件を言いな」
「は、はい。実は……」
「時計を直してほしい?」
書類に囲まれたお師匠様は、こちらを向いて目を丸くした。フィーネは申しわけなさそうに、おずおずと首肯する。
「その……ファウスト様にこんなことをお願いするのは恐れ多いんですけど。腕時計が壊れてしまって。時計屋さんで見てもらってもダメで、どうにかできないかなと思って」
「ふむ。どれ、ちょっと見せてみな」
「はい」
フィーネは手にはめていた腕時計を外すと、お師匠様に手渡す。
昔からはめている、見慣れた腕時計。
所々くすんだようなその腕時計には、細かな傷がたくさんついており、今は動く気配がまるでない。
本来の機能が失われてもなお、彼女はその腕時計をはめていたのだ。
お師匠様は何かを観察するように腕時計をマジマジと見つめ「精霊の気配がないね」と、そう告げた。
「精霊って、おとぎ話に出てくる、あの?」
フィーネの疑問に、お師匠様は「正確には少し違うけどね」と答えた。
「無機物であれ、有機物であれ、それが役割を果たす時、そこには精霊が宿るんだ。東洋だとそれは『付喪神』だとか『御霊』だとか『八百万の神』だとか呼ばれてるね。ものを働かせることのできる、いわば原動力さね」
「その原動力が、ここにはないと言うことですか?」
フィーネの問いにお師匠様は頷くと、そっと私に視線を寄せる。
「メグ、お前ならわかるだろう」
「え? えぇ、まぁ……」
精霊というのは、普通の人間には見えない存在だ。それは魔女や魔法使いであっても同じなのだが、お師匠様クラスの魔女になると気配で判別することができる。
そんなお師匠様がわざわざ私に尋ねてきたのは、私なら直接的に精霊の有無を確認することができると知っているからだ。私は生まれつき目の魔力が強い。そういう体質の人は、非常に稀有なのだという。
私はフィーネの時計を見る。
お師匠様の言うように、この時計には確かに精霊がいない。正確には、存在しているのだけれど、働いていないのだ。まるで命を失ったかのように、時計の精霊は長い長い眠りについている。
それは、この時計が役割を終え、寿命を迎えたということを物語っていた。
「じゃあ、この時計はもう……」
悲し気な表情を浮かべるフィーネに「まだ可能性がないわけじゃないさ」とお師匠様が言った。
「メグ、ゼペットの店に連れてってやんな」
「ゼペット?」
首を傾げるフィーネに、私は頷いた。
「街の時計屋のおっちゃんだよ。ドチャクソボロい店なのに何故か潰れないの」
「それだけ常連客が多いってことさね。腕のいい職人は、時に死んだものを蘇らせることがある。普通の時計屋が無理でも、ゼペットならどうにかできるかもしれないね」
「本当ですか……?」
「さてね。まぁ、ダメ元で行ってみな。さぁ、用が済んだら出てっとくれ。こっちは忙しいんだ」
お師匠様の部屋を追い出され、フィーネはふぅと一息吐く。
「ファウスト様とはもう何度も会ってるけど、やっぱり緊張するなぁ。忙しそうだったし、時計ぐらいで訪ねてくるなって怒られるかと思った」
「街の人にお師匠様は怒らないよ。私には使い魔を焼き肉にしようとしただけで怒るけど」
「そりゃ怒るでしょ」
七賢人であるお師匠様は、いつだって忙しい。それでも、こうした街の人のささやかなお願いを断る姿を、私は見たことがない。
人と魔女は助け合う関係にある。そんな古い教えを、お師匠様は今も守っている。だから、どんな忙しい時でも街の人のお願いは必ず聞いてあげている。
子供も、老人も、男も女も、政治家だろうが専業主婦だろうが、お師匠様にとっては関係ない。
たとえ壊れたものを直すことだろうが、世界平和につながることだろうが、お師匠様にとっては等しく平等なお願いなのだ。
それが、お師匠様が偉大な魔女として讃えられている理由なのかもしれない。
「じゃあ行こっか。ゼペットのおっちゃんはマジで腕がいいから、そこらへんの時計屋が匙を投げることでも解決してくれたりするよ」
「そっかぁ、直るといいんだけどなぁ……」
「でもそれ、買い替えちゃダメなの? 今、安くでオシャレなのたくさん売ってんじゃん。最新の電波時計なんて狂うことを知らないし、一流のデザイナーがデザインした時計だって格好いいよ」
「うん。それはわかるんだけど、何ていうか、もう少しこの時計使いたいんだよね。愛着があるっていうか」
「ふーん……? 愛着ねぇ」
「メグは昔からそういうの、淡白だよね」
愛着か。
お気に入りのカップやら、時計やら。私には正直、よくわからない感覚だ。
フィーネにとって、それが特別なものであることはわかるのだけれど。
その時の私は、その時計が彼女にとってどんなものなのか、本当の意味でちゃんと理解していなかった。
第3回へつづく(4月10日公開予定)
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