15 透明な気持ち
「失礼します」
保健室に入ると、先生の姿はなかった。カーテンの引かれたベッドが目に入り、静かに近づく。
「遠野先輩ですか? 瀧島です」
カーテンの外から声をかける。ドキドキしながら返事を待つと、「なに?」とかすれた声が返ってきた。
「朝海先輩に言われて、様子を見にきました。倒れられたそうですが、大丈夫ですか?」
「……入って」
瀧島君が、私を見てうなずいた。そうして、「失礼します」とカーテンを開ける。
遠野先輩は、あおむけで寝ていた。瀧島君の次に私の姿を見て、ぎょっとしたような顔になる。
「すみません。私も心配だったので、いっしょに来させてもらいました」
それだけではないのだけど、と思いながら言う。遠野先輩はしばらくじっと私を見た後で、「そう」と天井に目を向けた。
「よかった。あなたにはお礼を言いたいと思っていたから。わざわざ来てくれて、ありがとう」
「具合はどうですか?」
瀧島君がたずねる。
「軽い貧血だから、問題ない。もう少し休んだら仕事に戻る。朝海にはそう伝えて」
「わかりました」
それきりだまった瀧島君に、遠野先輩はちらりと視線を流した。
「それで……送る会は、どうなった?」
「大成功ですよ。サプライズも、とても盛り上がりました。みんな、おどろいていましたよ」
「そう」
遠野先輩の口元が、一瞬だけゆるんだように見えた。けれども、すぐに冷たい表情に戻ってしまう。
「じゃあ、仕事に戻って。朝海だけじゃ大変だろうから」
そう言うと、瀧島君から顔をそむけるように横を向いた。
「わかりました。如月さん、行こう」
私を見た瀧島君の顔は、明らかにくもっていた。少しの悲しさと、さびしさと、あきらめと。彼の中にそういうマイナスの感情がうずまいているのが、ありありとわかった。
「あの」
ベッドから離れた瀧島君を追わずに、私は遠野先輩を見つめた。
「私、ずっと気になってることがあって。遠野先輩の、瀧島君への態度のことです」
「え……」
瀧島君が、とまどいの声を出した。遠野先輩は、ゆっくりと顔を傾けて私を見た。
「私はぜんぶを見てきたわけじゃありませんし、聞いただけのことも多いです。でも、遠野先輩の瀧島君への態度は、ちょっと冷たいように感じるんです」
「……で?」
「だから、こう思ったんです。遠野先輩の中には、瀧島君に対する、何か特別な気持ちがあるんじゃないかって」
「特別?」
「──如月さん。もういいよ」
瀧島君が、あわてたように言う。
「僕は、大丈夫だから。気にしてないし、単に考えすぎってだけかもしれないし」
彼の顔を見た私は、その言葉がすぐに本心からのものじゃないってわかった。
同時に、自分の身勝手さに気づく。こんなこと、ほんとなら私が口を出すことじゃない。瀧島君が遠野先輩のことでなやんでいるってことを、暗に本人に伝えることにもなってしまう。
瀧島君の気持ちを考えたら、言うべきじゃない。聞くべきじゃない。
でも、このままにはしておけない。
瀧島君のためにも、遠野先輩のためにも。
それ以上に、私のためにも。
「ごめん、瀧島君。私が気になるの。はっきりさせないと、何も考えられなくなって、前に進めない。このままじゃ、あのことだって決められない」
瀧島君が、はっと目を見開く。
サキヨミの力を手放すかどうか。今それを持ち出すのは、ひきょうなことだってわかってる。
でも、本当のことだった。瀧島君が遠野先輩のことで苦しんでいること。遠野先輩が瀧島君のことを好きかもしれないこと。このふたつがはっきり解決しないと、考えるときのノイズになってしまう。
私は、知りたいんだ。遠野先輩の気持ちを。そして、それを知った後の、瀧島君の気持ちを。
じゃないと──サキヨミの力だけじゃなく、瀧島君のことだって、あきらめることすらできないから。
「──特別って、何?」
遠野先輩が冷えきった声で言った。それから、ゆっくりと体を起こす。
「私はべつに、瀧島に対して何も思ってない。同じ委員の後輩ってだけ。私の態度が冷たく思えたなら、謝る。でも、それ以上のことは何もしないし、言わない」
静かな湖面のような、感情が見えない瞳だった。
でも、それは表面だけのはずだ。感情──気持ちがない人間なんてひとりもいないってこと、私はよく知っている。
「遠野先輩。私、気持ちって、自分でも完全にはわからないものだって最近気づいたんです。あるはずなのに、見えない。……ううん、見えていないふりをしているだけなのかもしれません」
自分の考えを確かめていくように、少しずつ言葉を吐き出す。
「たぶんそれは、『自分がこんなことを感じるはずがない』とか、『こんなこと感じちゃだめだ』っていう思いこみのせいなんじゃないかなって思うんです。そうやって自分で透明にして隠しちゃうから、そのうち本当に見失って、わからなくなってしまうんじゃないかって」
ぐっと拳を握った。視界の端で、瀧島君がじっと私の言葉に耳を傾けているのが見える。
「遠野先輩の中にも、そういう気持ちがあるんじゃないですか。外から見ても、中から見ても、見えない気持ち。でも、見えないだけで、たしかにあるはずなんです。だから……もう少し、自分の気持ちを見つめてみてください。そうすることで、きっと何かが変わります」
遠野先輩は、私の言葉が終わったのを確かめるように、ゆっくりと首をかしげた。
「変わるって、いいほうに? それとも、悪いほうに?」
そう聞かれて、少し迷ったあとで首をふる。
「それは……わかりません」
ふっと、遠野先輩の唇から息がもれた。
「ずいぶんと、無責任だね」
「……どれだけ知りたいと思っても、すべての未来が見通せるわけではありませんから。だけど自分の本当の気持ちは、未来へ進むためのガイドになると思います」
「まるで、見通せる未来もあるみたいな言い方だけど」
「ありますよ。こうなりたいって強く望んでいれば、きっとそうなります」
遠野先輩は、じっと私の顔を見つめた。何かを見定めるような強い視線に、一瞬おじけづきそうになる。
そのとき、
「失礼しまーす!」
がらりとドアが開いたかと思うと、朝海先輩が飛びこんできた。
「朝海?」
遠野先輩が目を丸くする。
「小夜ちゃん、どう? 大丈夫?」
素早くベッドの横まで来ると、朝海先輩は遠野先輩の顔をのぞきこんだ。
「どうしてここに……仕事は、どうしたの」
「大体すんだよ。うーん、少し顔色戻った感じだけど、まだ白いね。あっ、外の自販機で栄養ドリンク買ってこようか?」
「気持ちはありがたいけど、それはいらない」
遠野先輩は表情を変えずに首をふった。朝海先輩が、はーっと長い息をつく。
「まったく、ムリしすぎなんだよ小夜ちゃんは。まだおれが倒れたときのこと気にしてるの?」
そのとき、遠野先輩の表情が動いた。はっと口を開けたかと思うと、見開いた目を一瞬だけ瀧島君のほうへと向ける。
「何度も言ったけど、あれは『ミケネコ戦士』の映画を一気見したせいで寝不足だったってだけ。小夜ちゃんのせいじゃないんだからね」
朝海先輩の言葉に、遠野先輩は目を泳がせた。
「……べつに、ムリなんてしてない。最近ちょっと、食事がいい加減だっただけ」
「朝ごはん食べた? 大事だよ?」
「今日は、少し食べた」
「でも、今日の給食のミネストローネ、残したんじゃない? 小夜ちゃんあれキライだもんね」
「……半分は食べた」
「スープだから、『飲んだ』じゃなくて?」
「具材が多いスープは、『食べる』でいいはず」
「その調子なら、心配いらなそうだね」
流れるような二人の会話に、しばしあっけにとられる。
すると、朝海先輩が私と瀧島君のほうへと顔を向けた。
「あっ、美術部、今、装飾の片付けしてるよ。チバたち、体育館にいるから」
「あ……ありがとうございます」
瀧島君がそう言い終わらないうちに、朝海先輩は「じゃあ、またあとで来るね」と言い残して保健室を出ていってしまった。
「はあ……」
遠野先輩が息をついた。疲れたような、ほっとしたような、不思議なため息。
「……もう、用はないでしょう。行って」
そう言って、うつむいてしまった。瀧島君は遠野先輩に一礼し、私に顔を向けた。
「如月さん、行こう」
「──あの、もしかして、なんですけど」
私の声に、遠野先輩がはっと顔を上げた。
その瞳は、さっきとは違い、波立っているように見えた。そこには、ある「マイナスの感情」が垣間見えた。
「もしかして……遠野先輩は、朝海先輩のときみたいに、瀧島君が倒れてしまうことを心配してたんですか?」