12 道
「瀬戸!」
「レイラ!」
深谷先輩と雨宮さんが、同時にさけんだ。びくっとしたレイラ先輩は、申し訳なさそうに頭をかいた。
「ええっと……ふかやん、ごめん! いきなり電話して、びっくりしたよね」
「いや、かまわない。ひったくりは無事につかまったぞ」
「ありがとう! ふかやんが電話に出たとき、目の前で女の人のバッグがひったくられちゃって。何かしなくちゃって思って、とっさに伝えちゃったの。ほんとは、別のことで電話したんだけど……」
そう言って、ちらりと雨宮さんを見た。
「レイラ、捜したぞ。いったい、何をしてたんだ?」
言いながら、雨宮さんがレイラ先輩の腕をつかんだ。
「ほら、行くぞ。君たち、協力ありがとう。なんとか間に合いそうだよ」
「えっ、あのっ……ちょっと、待ってください!」
レイラ先輩が、あわてたような声を出す。
「あたし、あの……まだ、迷ってて! その、留学のこと!」
(えっ……)
ぴしり、と空気が固まった。
レイラ先輩、今、「留学」って言った……!?
「迷うって……何を言うんだ。またとないチャンスなんだぞ。それに今更断るなんて、話をつけてくれた先生の顔をつぶすことになる」
「ちょっと、待ってください。留学ってどういうことなんだ、瀬戸」
深谷先輩の言葉に、レイラ先輩が視線を落とした。
「……雨宮さんの絵のお師匠さんが、イタリアに短期留学したらどうだって言ってくれたの。卒業式の次の日から、春休みの間ずっと」
深谷先輩が絶句する。
イタリアって、ヨーロッパのイタリア、だよね。
卒業式は、たしか三月の半ばくらいだ。そこから春休みの間ずっとってことは……レイラ先輩といっしょにいられるのは、あと一か月くらいってことになる。
レイラ先輩は、弱ったような表情で続けた。
「あたし、迷って返事は保留にしてたんだけど。話に行き違いがあったみたいで、気づいたときには、滞在先や絵の先生まで、ぜんぶ手配済みだったの。留学するかどうか、ずっとなやんでたけど、そこまで決まってるんだし、やっぱり行こうって思ってた。──さっきまでは」
「さっきまで?」
雨宮さんがけげんそうに顔をしかめる。
「あたし、来月卒業しちゃうんです。卒業したら、もうふかやんとも、美術部のみんなとも、毎日は会えないんです」
「だから、なんだ?」
いらだたしげに言う雨宮さんに、レイラ先輩は真剣な表情を向けた。
「あたし……中学生としての最後の一か月を、みんなといっしょに過ごしたいんです!」
「……ばかなことを言うのはよしてくれ」
ため息をつきながら、雨宮さんがレイラ先輩の肩に手を置いた。
「レイラの絵の才能は、僕が一番わかっているつもりだ。先生だって、レイラの才能に惚れこんだから留学を手配してくれたんだぞ。自分がどれだけ恵まれているのか、わからないのか?」
「それは、わかってます。だから、すごくなやんだんです。お断りしたら、こんなチャンスもう二度とないかもってことも、よくわかってます」
「なあレイラ。君は今、人生を左右する重要な分かれ道の前に立ってるんだ。遊びと留学、どっちが大事かなんて子どもでもわかる。行かなかったら、絶対に後悔することになるぞ」
雨宮さんの力強い声に、レイラ先輩がうなだれた。そのとき、
「後悔するかどうかは、本人が決めることです」
深谷先輩が、静かにレイラ先輩に歩みよった。
「ふかやん……」
「あなたの言っていることは、よくわかります。留学なんて、たしかにまたとないチャンスでしょう。断るなんて、どうかしてると僕も思います」
意外な発言だったのか、雨宮さんは虚をつかれたように目を見開いた。レイラ先輩が、ぎゅっと苦しそうな表情になる。
「しかし、一番尊重すべきなのは本人の気持ちです。思い残しがあれば、留学したとしてもじゅうぶんな成果にはつながらないと思います」
「そんなもの、行けば変わる。たとえば、『画家の王』と呼ばれるルーベンスの大胆な構成や豊かな色彩は、彼のイタリア修業の成果だ。ルーベンスの他にも、イタリアに滞在することで大きな影響を受けた画家はたくさんいるんだ」
「しかし……」
「断言するが、レイラには天から与えられた才能がある」
雨宮さんが、深谷先輩の言葉をさえぎる。
「早くから環境を整えて修業をすれば、さらに伸びていくだろう。僕も、レイラの才能に惚れこんだ人間のひとりだ。この先彼女がどこまで行くのかを、見届けたいんだよ」
それは、心の底からにじみ出たような、熱い声だった。
何かを言いかけた深谷先輩が、静かに口を閉じる。
「だから、頼む、レイラ。もう一度、よく考えてみてくれ」
レイラ先輩の正面に立つと、雨宮さんはうったえるようにその顔を見つめた。
「瀬戸……おれは……」
「ありがとう、ふかやん。おかげで、答えが見つかったよ」
気づかうような表情の深谷先輩に、レイラ先輩はにっこりと笑顔を返した。
「雨宮さん。あたしには、未来は見えません」
はっと、思わず息をのんだ。
未来は、見えない……?
(それって、言葉通りの意味? それとも……)
瀧島君が、静かに私を見たのがわかった。レイラ先輩は続ける。
「未来が見えたらいいなって、思ったこともあります。でも、それってやっぱり、つらいだろうなって思ったんです。未来を知ってしまったら、知る前にはもう、絶対に戻れないから。見えた未来によってその後の気持ちや行動が変わっちゃって、本来の自分がどうしたかったのか、わからなくなっちゃいそうだから」
そう言って、レイラ先輩は目を細めて私を見た。次に、瀧島君を。
レイラ先輩……やっぱり、サキヨミの力のことを言ってるんだ。
「未来が見えても、迷わずに自分の気持ちをしっかり持っていられる人もいると思います。でもあたしには、それはできそうにないんです。だから、あたしに未来が見える力がなくてよかったなって。そう思ってるんです」
そう言って、眉を下げるようにして笑った。
(あれ。それじゃあ……思い過ごし、だった?)
レイラ先輩には、未来は見えない。
つまり、サキヨミの力を手に入れたわけじゃない……ってこと?
「悪いんだが……さっきから、何の話をしているんだ?」
雨宮さんが困惑気味に眉を寄せた。
「つまり、あたしが言いたいのは……未来がどうなるかわからないのは怖いけど、そのほうがおもしろいんじゃないかってことです!」
それは、いつものレイラ先輩の明るい声だった。はっとして、先輩の言葉に耳を傾ける。
「あたしは常に、自分の気持ちに正直に生きていたい。それが他の人から見て間違いだったとしても、いいんです。そのときのあたしにとって間違いじゃなければ、それでいいんです。自分が選んだ道の先にどんな未来が待っているのか、いつもワクワクしながら待っていたいんです」
だから、とレイラ先輩は静かに頭を下げた。
「留学のお話は、やっぱりお断りします。喜多島先生には、あたしの口から直接お話しします。雨宮さんがあたしの絵を気に入ってくださって先生に紹介してくださったこと、とっても感謝しています。お顔に泥を塗るようなことをして、本当にごめんなさい」
雨宮さんは、あっけにとられた様子でレイラ先輩をながめていた。
胸が、震えていた。レイラ先輩の心からの言葉に、感動してしまったんだ。
未来がどうなるのかは、わからない。でも、だからこそワクワクできる。
私も、そう思ってた時期があった。去年の夏くらいのことだ。
でも、その後の私は……わからないことが、怖くてたまらなくなってしまった。
きっと、瀧島君の存在が、自分の中でどんどん大きくなっていったからだ。
大事なものが増えると、怖いものも同じように増える。
だけど、怖がって行動しなかったら、何も変わらない。
自分で選んだ道は、もしかしたら間違っているのかもしれない。
でも、自分の気持ちに正直に生きていれば。どんな未来が来るのかなって、ワクワクしながら待つことができるんだ。
夕実ちゃんが、瞳をうるませて胸を押さえていた。瀧島君や叶井先輩たちも、かたずをのんでレイラ先輩たちを見つめている。
そんな中、深谷先輩が一歩動いた。
「──あの。もしよければ、おれもいっしょに行ってもいいでしょうか」
「ふかやん……?」
目を丸くしたレイラ先輩に、深谷先輩は遠慮がちに言った。
「部外者であることは百も承知だが……心配なんだ。役に立つどころか、かえってジャマになるかもしれないが……いっしょに、行かせてほしい」
「そんな! ふかやんがついてきてくれたら、すっごく心強いよ」
レイラ先輩が、うかがうように雨宮さんに顔を向けた。すると、
「……なるほど。そういうことか」
雨宮さんが、二人を見て長いため息をついた。
「たしかに、今しかない青春を奪う権利はだれにもないよな。僕としては、すごく残念だけど。こればっかりは、しょうがないか……」
ひとりごとのように言うと、ふっきれたような笑みを見せた。
「わかった。深谷君もいっしょに、三人で行こう。先生も怖い人じゃないから、許してくれるだろう」
それを聞いた瞬間、レイラ先輩の顔がぱっと輝いた。
「ありがとうございます、雨宮さん!」
「そのかわり。絵を描いたら、どんな作品でも必ず僕に見せてくれよ。僕はずっと、君を応援し続ける。そして、歴史に名を残す画家にしてみせるからな」
「それは頼もしいです。ぜひ、よろしくお願いします」
深谷先輩が頭を下げると、レイラ先輩が「ちょっと、ふかやん!?」とアワアワした。
「まったく。レイラも、こういう相手がいるなら言っておいてくれたらよかったのに。会ったときから、深谷君の僕を見る目が怖かった理由が、今わかったよ」
「え、前言いましたよね? 仲が良くて、勉強とかいろいろお世話になってる同級生がいるって」
「いや、それじゃ言葉足らずだろう」
……あれ。
雨宮さん、もしかして深谷先輩のこと、レイラ先輩の彼氏だと思ってる?
でもどうやら、レイラ先輩も深谷先輩も、そのことには気づいていないみたい。
「それじゃあ、ちょっと行ってくるね。終わったら連絡するよ!」
「待ってます。いろいろ話したいこともありますし」
瀧島君の言葉に、レイラ先輩が「そうだね」とうなずく。
「あたし、たこ焼き食べたくて! ひとりで食べるの、さびしいなって思ってたんだ。よかったら、あとで付き合ってね!」
笑顔で手をふるレイラ先輩を、私たちも顔をほころばせながら見送った。
『サキヨミ!⑫ 大事件!?伝える気持ちとオドロキの真実』
第4回につづく▶
書籍情報
- 【定価】
- 814円(本体740円+税)
- 【発売日】
- 【サイズ】
- 新書判
- 【ISBN】
- 9784046323088
★最新完結刊『サキヨミ!(15) ヒミツの二人でつむぐ未来』は6月11日発売予定!
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