11 暴走自転車
サキヨミで見た自転車と同じだということは、すぐにわかった。ショルダーバッグをハンドルとともににぎりこんだ若者が、必死の形相でペダルをこいでいる。
「だれか、その人つかまえて! バッグを取られたの!」
後ろのほうから、女の人のさけぶ声が聞こえた。
(そうか。あの自転車に乗ってたの、ひったくりだったんだ!)
逃げきるために、自転車のスピードはぐんぐん上がっているように見えた。まずい。早くよけないと、絶対にぶつかる!
けれど、おどろきなのか恐怖なのか、体はすぐに動かなかった。声すら出せずに、ただこちらに走ってくる自転車を見つめることしかできない。
すると次の瞬間、視界がさえぎられた。自転車に背を向け、私の前に割って入ってきたのは──瀧島君だ!
彼は腕で私を囲うようにして、ぎゅっと目をつぶった。
「だめっ!」
彼の襟元をつかみ、足に力を入れる。なんとか少しでも、通路の端に寄ることができれば……!
自転車の走るシャーッという音が、すぐそこまでせまっている。
(……ウソ、間に合わない!?)
そう思ったとき。
──パーン!
何かが破裂するような音が、あたり一帯にひびいた。
「うわっ!?」
瀧島君の肩ごしに、自転車がバランスを崩すのが見えた。そのすきに、瀧島君が私を通路の端へと連れていってくれる。
「ここにいてくれ」
そう言うと、速度を落としてふらふらしている自転車に向かってすぐさま駆けていった。荷台をつかみ、ひきずられるようにしながらも、なんとかその動きを止める。
「そいつ、ひったくりだ! つかまえてくれ!」
どこかのお店のおじさんの声がひびいた。それを合図にしたように、近くにいた通行人が次々と自転車の若者を取り囲んだ。
(って……あれ!? 深谷先輩っ!?)
駆けつけた人の中に、深谷先輩がいた。おどろくことに、チバ先輩と叶井先輩の姿もある。
先輩たちは瀧島君とともに、ひったくりの若者をしっかりと取り押さえた。
「美羽ちゃん、大丈夫!?」
気づくと、いつの間にか夕実ちゃんがそばに立っていた。その無事な姿に、ほっと安心する。
「夕実ちゃん、どうしてここに? 返事が来ないから、心配してたんだよ」
「それが、すっごくいろいろあってさ! そのことを美羽ちゃんに伝えるために長文打ってたんだけど、送信する前に、レイラ先輩から深谷先輩に電話がかかってきたの」
「レイラ先輩から?」
「うん。『ひったくりが自転車で商店街の奥に向かってる』って。そこで切れちゃったんだけど、少ししたら、ほんとに『ひったくり!』って声が聞こえて、自転車がこっちに走ってくるのが見えてさ。ほんと、びっくりしたよ」
言いながら、夕実ちゃんがひったくりのほうに目を向けた。
交番から駆けつけたらしい警察官が、若者の腕をつかんで連行していく。その横では、バッグの持ち主の女性が、深谷先輩たちに向かって頭を下げているのが見えた。
よかった。ひったくりはつかまって、バッグも無事に女性の元に戻って。
何より、レイラ先輩が怪我をするっていう未来が、現実にならなくてすんだんだ。
すると、夕実ちゃんがはあっと息をついた。
「ほんと、よかったあ。すごいスピードで向かってくるから、つかまえるのなんてムリだって思ったんだけど。深谷先輩がとっさに、コレを使ったんだ」
そう言って夕実ちゃんが持ち上げたのは、色とりどりのテープだった。端っこに、アイスクリームのコーンのようなものがくっついている。それを見て、あっと思い出した。
「そういえば、さっきの大きい音って……!」
「クラッカーだ」
深谷先輩の声だった。
「たまたま今日買ったものだったんだが、思いがけず役に立ったようだな。ひったくりを待ち伏せして、近くに来た瞬間に鳴らしたんだ」
そう言った彼の後ろから、瀧島君やチバ先輩たちもやって来た。
「見たか、夕実。おれの活躍ぶりを」
「もちろん見てたよ、ヒサシ君! お手柄だったね!」
「よう、美羽。ひとまずこれで、ケリがついたな」
チバ先輩に声をかけられ、「はい!」とうなずく。
すると、瀧島君が口を開いた。
「深谷先輩。レイラ先輩から電話があったということでしたが、この商店街にいることを伝えてあったんですか?」
「いいや。勉強のジャマになるといけないから、もうずっと連絡はひかえているんだ。だが……不思議だな。なぜ瀬戸は、おれがここにいることを知っていたんだ?」
あれっ。そういえば、そうだよね。
レイラ先輩が電話でひったくりのことを伝えたのは、「つかまえて」っていう意味だったはず。
当たり前だけど、ひったくりをつかまえてもらうためには、電話の相手である深谷先輩がこの商店街にいる必要がある。
(どこかのタイミングで、深谷先輩のことを見たのかな?)
レイラ先輩が喫茶店にいる間は、深谷先輩は書店にいたはず。
その後、私たちの前に現れたときは、すぐに看板の陰に連れていったし。
深谷先輩が喫茶店に入る頃には、レイラ先輩はいなくなってしまってた。
つまり、深谷先輩がレイラ先輩に「商店街にいる」ってことを連絡しないかぎり、レイラ先輩がそのことを知る機会はなかったはずだ。
「たしかに、不思議ですね。どのみちレイラ先輩に連絡を取る必要がありますから、そのとき聞いてみましょう。レイラ先輩の居場所はわかっているんですか?」
「いや……これから、聞こうと思っていたんだ」
そう言いつつも、深谷先輩はコートのポケットに手を入れたまま、スマホを取り出そうとはしなかった。瀧島君は、口を結んでその様子を見つめている。
(レイラ先輩のすることって、やっぱりちょっと不思議だな……)
そう思ったとき。
私の頭の中に、ぱっと稲妻が走った。
この間、レイラ先輩は、モノマネ女子とプロレス男子がぶつかる未来を阻止した。
あのときは、「レイラ先輩はあれが起こる以前にサキヨミの力を手に入れたんじゃないか」って、いったんは考えたんだよね。
だけど、実はそうじゃなくて。
むしろ、あの瞬間に、レイラ先輩が力を手に入れてしまった……ってことはないのかな。
だって、条件がそろってる。
『物理的な衝撃』、『私のそばにいること』、『私の見たサキヨミを阻止しようとすること』。
「私のそばにいた」レイラ先輩は、「私の見たサキヨミを阻止しよう」として、頭をぶつけてしまった。これは、「物理的な衝撃」にあたる。
あの瞬間に力を手に入れ………そして今日、ひったくりとか深谷先輩とか、彼らや商店街に関するサキヨミを、レイラ先輩があらかじめ見ていたんだとしたら……?
ぞくっとして、思わず瀧島君を見る。すると彼は、小さくうなずいた。
(もしかして、瀧島君も同じこと考えてた……?)
「あー、ちょっといいか、瀧島」
チバ先輩が、こほんと咳ばらいをして言った。
「オマエ、レイラ先輩のことで連絡くれただろ。深谷先輩に協力してもらうかどうか、判断してくれって」
「はい。そういえばその件、どうしたんですか? レイラ先輩が商店街にいるってこと、深谷先輩に話したんですか?」
瀧島君の言葉に、チバ先輩は首をふった。
「いや、オレは何も話してねえ。それどころじゃなくなっちまうコトが起きてな」
そうして、真剣な面持ちで後ろをふりかえる。それを合図にしたかのように、柱の陰から黒ずくめの人物が現れた。
(えっ!?)
その顔を見て、思わず息をのんだ。波のようにうねったパーマ頭。
レイラ先輩といっしょにいた、あの男性だ──!
「やあ。君たちも、月夜見中美術部の子だね? レイラから写真を見せられたことがあるから、知っているよ」
レイラ、と呼び捨てにした瞬間、深谷先輩が眉間にシワを寄せた。
ぼう然とする瀧島君と私に、男性は歩みよってにっこりとほほえんだ。
「僕はアメミヤ・ユウジ。レイラとは父同士が知り合いなんだ」
「アメミヤさんは、画家の卵だそうだ。個展も開いていらっしゃる」
叶井先輩が、スマホの画面を見せてきた。そこには「雨宮悠司展」という文字と、彼の顔写真が映し出されていた。
「今日は大事な用があってレイラを呼び出したんだけど、はぐれてしまってね。捜していたら喫茶店に見知った顔を見つけたものだから、彼らにもレイラをいっしょに捜してもらうようにお願いしたんだよ」
「はぐれた?」
そう言った瀧島君に、チバ先輩が答える。
「とつぜん、走ってどこかに行っちまったんだそうだ。それで、見失ったらしい」
「すぐに追いかけたんだけど、人の波にさえぎられて見えなくなってしまったんだ」
情けないよ、と雨宮さんが頭をかく。
「『すぐに戻ります』って言ったから、しばらく待ってはいたんだけどね。とうとう戻らないから、困ってしまったんだよ」
「すぐに連絡を取ればよかったのでは? 待ち合わせて会っていたなら、おたがい連絡先は知っていたんですよね」
瀧島君に言われると、雨宮さんがむっとしたような表情になった。
「……電話をかけても、なぜか出ないんだ。メッセージも既読にならない」
(どういうことなんだろう……)
聞けば聞くほど、よくわからなくなっていく。
雨宮さんが画家の卵というのは、本当みたいだけど。
レイラ先輩とは、お父さん同士が知り合いっていうだけなのかな。
「大事な用」って、いったい何なんだろう。レイラ先輩は、どうして急に走り出したんだろう。
だれかとの電話で、雨宮さんは「連れていく」って言っていた。
それがレイラ先輩のことなら、いったいどこに連れていくつもりだったんだろう。
とつぜん走り出して、連絡にも出ないなんて。
それって、まるで……雨宮さんから、逃げ出したみたいじゃない?
思わず、一歩後ずさった。瀧島君も、何かを見きわめるような瞳で雨宮さんを見つめている。
ぴりぴりした空気の中、雨宮さんは深谷先輩に笑顔を向けた。
「レイラと連絡を取ってくれる約束だったはずだ。頼むよ、ええと……」
「深谷です」
「そうそう、深谷君。君の名前もよくレイラから聞いてるよ。勉強を教わったり、世話になっているそうだね。僕からもお礼を言うよ」
「べつに、その必要はありません。──それより」
深谷先輩が、キッと雨宮さんを見すえた。
「瀬戸と連絡を取る前に、あなたの『大事な用』というのが何なのか教えてもらえませんか? 瀬戸があなたからの連絡に応えないのは、単に気づいていないだけなのかもしれませんが、もしかしたら……何か、他の理由があるのかもしれませんし」
「……なるほど。僕を、あやしんでいるんだね」
雨宮さんが、唇に薄笑いを浮かべる。
「悪かった。たしかに、説明が足りなかったよ。用というのは、僕の師匠である画家の先生にレイラを会わせることだったんだ」
そう言うと、コートのポケットからスマホを取り出した。しばらく画面を操作してから、「ほら」と私たちに画面を向ける。
「喜多島惣一郎って、聞いたことないかな。有名な洋画家なんだけど」
スマホの画面に映る男性の写真に、あっと声が出た。
(この人、テレビで見たことある!)
「喜多島……って、マジで、あの喜多島惣一郎!?」
チバ先輩が興奮ぎみに言った。
「雨宮さんのプロフィールにも、『喜多島惣一郎に師事』と書かれていますね」
叶井先輩がスマホを見ながら言った。師事っていうのは、弟子入りみたいな意味だったっけ。
「これで、信じてもらえたかな」
「でも、どうしてレイラ先輩を、その、画家の先生に会わせることになったんですか?」
夕実ちゃんがたずねる。
「文化祭で展示した、60号サイズの油絵があっただろう。あれの写真を先生に見せたら、『すごい才能を感じる、ぜひ本人に会いたい』とおっしゃってね。先生は、レイラが画家になるための手助けをしようと考えていらっしゃるんだよ。それで、僕が二人を会わせることになったんだ。試験直前の時期になっちゃってレイラには悪かったんだけど、先生の予定が今日くらいしか空いてなくてね」
そう言って、雨宮さんは改めて深谷先輩に笑顔を向けた。
「つまり僕は、喜多島先生とレイラを引き合わせるためのただのつなぎ役なんだよ」
「それじゃあ、喜多島惣一郎……先生が、今、この近くにいるってことっすか?」
チバ先輩の言葉に、雨宮さんはゆっくりとうなずいた。
「出雲書店の二階に画廊があるだろ? あそこで会うことになってるんだ。先生も、そろそろいらしてる頃合いだ」
(そうか……)
それじゃあ、あのときの雨宮さんの電話の相手は、たぶん画家の先生で。
「連れていく」っていうのは、「レイラ先輩を画廊へ連れていく」っていうことだったんだ。
べつに、危険なことじゃなかった。
むしろ、レイラ先輩にとっては、すごくいいお話だったんだ……。
「これでわかってくれたかな。もう、あまり時間がないんだ。頼む、レイラに電話をかけてくれ」
雨宮さんが、真剣な語調で深谷先輩に歩みよった──そのとき。
「あれ? 雨宮さん、と、……みんな?」
聞き覚えのある声に、全員がいっせいにそちらを見た。
そこには、きょとんとした表情のレイラ先輩が立っていた。