12 危機
マンションに到着し、車から降りる。
結局ここまでの間、だれも一言もしゃべらなかった。
そう思ったとき、
「ああ……買い物を忘れたな」
お父さんが小さくつぶやいた。
「お母さんから幸都が来るって聞いて、ケーキを買って帰ろうと思っていたんだ。あの駅ビルにあるケーキ屋、好きだっただろう」
「ケーキ屋は一階だよ。なんで二階のペットショップに? また熱帯魚鑑賞?」
瀧島君の声には、トゲが感じられる。
お父さんはそれには答えず、だまったままロビーへと向かった。
重たい空気の中、エレベーターで四階まで上がる。
(大丈夫。きっと、大丈夫だよ)
心臓のドキドキを感じながら、私は必死に自分にそう言い聞かせた。
すぐそばにある瀧島君の横顔を見て、覚悟を決めるように拳をにぎった。
チーンという到着音とともに、ドアが開く。
その瞬間、妙なにおいがした。──焦げくさい。
「ちょっと、待て」
お父さんが、エレベーターから身を乗り出して廊下をのぞく。すると、
「助けて!」
男の子の声だった。お父さんがエレベーターから猛然と飛び出し、廊下を走り出す。
「どうしたんだ!」
お父さんを追って、瀧島君と私もあわててエレベーターを降りた。
廊下の先、瀧島君の住んでいた部屋の、となりの部屋のドアが開いている。
そこから、うっすらと煙が出ているのが見えた。
(……うそ。火事!?)
ドアの前で、小学校低学年くらいの男の子が泣きそうな顔をしている。駆けつけたお父さんにすがりつくと、彼は部屋の中を指さした。
「トースターから、火がボンッて……! ママは出かけてて、いなくて」
「中に人は!」
「妹が、ふとんの部屋にいる」
それを聞くなり、お父さんが煙を吐き出す部屋に飛びこんだ。
その瞬間、感知器が作動したのか、警報がマンションじゅうに鳴りひびいた。
それを聞いた男の子がびくっと肩を震わせ、とうとう声を上げて泣き出してしまう。
「たっ、瀧島君!」
どうすればいいのかわからず、思わずそばにいた瀧島君のソデをつかむ。
瀧島君は男の子と部屋の中を交互に見てから、そっと私の手に触れた。
「如月さんは、その子を連れて階段で下りて。僕は父を手伝う」
ソデをつかんでいた私の手を優しく離すと、瀧島君は部屋の中に飛びこんでいった。
「待って、だめ、瀧島君!」
煙は、どんどん黒く濃くなっていく。
鳴り続ける警報が、心臓の鼓動と呼吸のスピードを速めていった。
「……ここにいて!」
男の子にそう言うと、私は瀧島君の後を追って部屋に入った。
(──熱い!)
たちまちおそってくる熱と煙に、顔をしかめる。
「父さん! どこだ!」
「幸都、いるのか!?」
瀧島君とお父さんの声にはっとする。
煙の中に、瀧島君の背中が見えた。そのむこうに、煤で顔が黒くなったお父さんが顔を出す。
「早く、外に出ろ!」
よく見ると、お父さんは腕の中に小さな女の子を抱えていた。
女の子は、三歳くらいだろうか。何が起こっているのかわからないのか、大きな目を丸く見開いたままきょとんとしている。
「如月さん!? どうして来たんだ!」
ふりかえった瀧島君が、おどろいて私の肩に手を置く。
そのまま押し出されるように、瀧島君と私は廊下に出た。
「幸都、この子を頼む。早く、下まで下りるんだ。消防に通報はしたな?」
「いや、まだ……」
「早くするんだ!」
言うなり、お父さんは廊下の奥に向かって走り出した。
端に設置されていた消火器を持ち上げると、再び部屋の中へと向かう。
「いいか! 絶対に入ってくるんじゃないぞ!」
「父さん!」
「待って、瀧島君!」
ついていこうとした瀧島君の腕を、私はがしっとつかんだ。
「この子たちといっしょに、下りよう。今はとにかく、避難することを考えなきゃ」
「いや、でも……!」
「落ち着いて、今の状況を見て! お父さんに言われたこと、守らなきゃ!」
言われて、瀧島君ははっとした表情で私を見つめた。
私の背後では、警報を聞いた住人たちが部屋から出て、ぞくぞくと避難を始めている。
煙は、どんどん廊下に広がり始めていた。
「──わかった。下りよう」
私は妹さんを抱っこして、男の子といっしょにエレベーター脇の階段へ向かった。
火災報知器の影響なのか、エレベーターは止まってしまっていたんだ。
下へ下りる途中で、瀧島君はスマホを使って消防署に通報をした。
「火事です。はい、住所は……」
その後、名前や電話番号を告げ、燃えているものや避難状況について伝えると、瀧島君は電話を切った。
一階までたどり着き、建物の外に出る。
住人とおぼしき人たち、心配して出てきたらしい近所の人たちが集まっていて、不安げに火元の部屋を見上げていた。
(瀧島君のお父さん……まだ、出てこない)
火元の部屋の窓は、開け放たれていた。黒い煙が、外に向かってもくもくと吐き出されている。
ぶるっと震えると、瀧島君が静かな声で言った。
「ありがとう、如月さん。おかげで、冷静さを取り戻せた。あやうく、その子たちを危険な目にあわせてしまうところだったよ」
「ううん、そんな。私は、お父さんに言われたことを守っただけで……」
すると、瀧島君は何かを決意するようなまなざしになった。そうして、そっと私の肩に触れる。
「如月さんは、この子たちといっしょにここにいて。僕は、まだ他の住人が残っていないか確認してくる」
「えっ!? だっ、だめだよ、危ないよ!」
背を向けた瀧島君に向かい、あわてて声をかける。
「大丈夫。父さんがいるんだ。僕は、今やるべきことをやるよ」
ふりかえって言いながら、瀧島君はきらりと目を光らせた。
迷いのないその目に、言おうとしていた言葉がのどにつかえる。
その一瞬の間で、瀧島君はマンションの中に戻っていってしまった。
「──瀧島君、気をつけて!」
力のかぎり叫んだ私は、そばにいた男の子と妹さんをぎゅっと抱きしめた。
(どうか、瀧島君もお父さんも、無事でありますように……!)
震える体で、せいいっぱいの気持ちをこめて祈る。
いつの間にか泣きやんでいた男の子が、妹さんの頭をなでていた。
「……妹がぐずるから、パンを焼いてあげようと思って。初めてだけど、ママがやってるのを見てるからできると思ってた。でも……」
「うん。えらいね。優しいお兄ちゃんだね」
「……ママ、怒るかなぁ……」
そう言って私の顔を見上げた男の子の目には、再びじわりと涙が浮かんでいた。
「大丈夫だよ。あなたも、妹さんも、ちゃんと無事なんだから。それが一番、大事なことだよ」
男の子は、「うん」と言ってぎゅっと私のソデをにぎった。
そのとき、消防車のサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
「──あれ。もう、火、消えたんじゃね?」
そばにいた男の人が、ぼそりとつぶやく。
窓を見上げると、さっきまで勢いよく吐き出されていた煙がいつの間にか消えていた。
「──如月さん」
はっと、エントランスのほうを見る。
瀧島君が、女性が乗った車いすを押してこちらにやって来るところだった。そのとなりには、煤で真っ黒になったお父さんの姿もあった。
「瀧島君! お父さんも、大丈夫ですか!?」
「ああ。なんとか、火は消したよ。でも、まだ入らないほうがいい」
そう言うと、お父さんはひざに手をつき、不安げな顔の男の子に向かってほほえんだ。
「大丈夫か? どこも怪我してないか?」
こくり、とうなずいた男の子に、「そうか」とお父さんは安心したような表情になった。
そのとき、
「あ、ママぁ」
妹さんが、私の背後に向かって両手を伸ばした。
「ハルト! リナちゃん!」
おだんご頭の女の人が、買い物袋をぼとりと落としてこちらに駆け寄ってくる。
「よかった! 本当に、よかった……!」
涙を流して、二人の子どもをしっかりと抱きしめた。
瀧島君もお父さんも私も、その光景を前に、思わず顔をほころばせた。
『サキヨミ!⑪ 思いは届く?運命のわかれ道』
第4回につづく▶
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