11 導き
思わず、そばにあった壁かけ時計をあおぎ見た。
時刻は、まだ二時前だ。
「仕事だって聞いてたんだけど」
瀧島君の言葉に、お父さんは「ああ」と渋い表情で答えた。
「さっき終わった。ここにはちょっと用があって、寄ったんだ」
途中で目をそらして言うと、お父さんはため息をついた。
(そうか。やっぱりさっきの行動で、渋滞にはまってしまうっていうお父さんの未来が、変わったんだ……)
古紙の散乱による渋滞の影響は、私たちが考えていたよりも大きいものだったらしい。
まさかこんなに早くお父さんが帰ってくるなんて、思ってもいなかった。
せっかくがんばって、コウキ君とハルちゃんの未来を変えられたのに。
それが原因で、こんなことになってしまうなんて……。
しかも悪いことに、また私は瀧島君といっしょに「ウサギ」のそばにいる。
案の定、お父さんはウサギのケージを見てぴくりと眉を上げた。
「……また、君とウサギなんだな」
「だから、何なんだ。如月さんもウサギも、何も悪くない」
「もちろん、ウサギは悪くない。だけど幸都、その子は知っているのか? 幼稚園の頃、ウサギがいなくなったときのことを」
(え……?)
お父さんが、一歩私に近づいてくる。
瀧島君は「やめろ」と声を上げ、私を背中の後ろに隠すようにした。
「幼稚園のとき、幸都が大事にしていたウサギがいなくなったことがある。幸都はそのウサギを捜し回ったあげく、駐車場に入りこんで車とぶつかりそうになって転倒し、怪我をした。たいした怪我ではなかったが、それはたまたま運が良かっただけだ」
「だからそれは、さんざん話しただろう! そこまで危険なことじゃなかったって」
そう言った瀧島君の横で、ひゅっとのどが鳴った。──知らなかった。
「瀧島君……そのウサギってもしかして、みゅーちゃんのこと……?」
私の問いかけに、瀧島君は苦々しい顔でうなずいた。
そうしてすぐにお父さんに向き直り、続ける。
「車におどろいた僕が勝手に転んだだけだ。ウサギは、関係ない」
「関係あるだろう。ウサギがいなくなっていなければ、おまえはそんな目にはあっていない」
お父さんは、静かに私へと目を向けた。
「君が逃がしたウサギだろう、如月さん」
どくっと、心臓が波打つ。
「幸都は、小さい頃に犬にかまれたことがあるんだ。そのときから、気をつけていたのに……また、危険な目にあわせてしまった。このとき君を幸都から遠ざけていれば、ジャングルジムの事故も防げたかもしれないのに。完全に、私の判断ミスだ」
「だから、それは違う! 僕が危険な目にあうことと、如月さんとは何の関係もないんだ。父さんは如月さんを僕にとってマイナスの存在であるかのように言うけれど、違う。如月さんは、どこまでもプラスの存在でしかないんだ。如月さんがいなければ、今の僕はいないんだよ!」
瀧島君の声に感情がこもり、自然と大きくなった。お父さんはちらりとあたりを見回すと、
「……出よう」
そう言って、ペットショップの出入り口のほうに向かって歩いていった。
「如月さん……ごめん」
瀧島君が、くやしそうな顔で言う。
「どうして謝るの? 瀧島君、何も悪いことしてないよ」
「油断したんだ。こんなに早く父が帰ってくると思わなかったし、ここで会うなんて思いもしなかった。どうしてここに用事があったのかわからないけど、とにかく僕のせいでまた如月さんにいやな思いをさせた。本当に、ごめん」
「謝らないで。それよりも、私、瀧島君にお礼を言わなきゃ」
「お礼?」
首をかしげた瀧島君に、私はうなずく。
「みゅーちゃんのこと。ひとりで捜してくれてたなんて、知らなかった。ありがとう、瀧島君」
言われて、瀧島君は少し悲しそうにふっと笑った。
「……如月さんに、喜んでもらいたかったんだ。結局、見つけることはできなかったけど」
「ううん。捜してくれたってだけで、すごくうれしいよ。私なんか寝こんじゃって、何もできなかったのに」
言いながら、ちくりと胸が痛んだ。
ジャングルジムのことだけじゃなかった。みゅーちゃんのことでも、瀧島君は危険な目にあってしまっていて。その陰には、私という存在がいた。
瀧島君は、みゅーちゃんがいなくなった悲しみにくわえて、さらに痛い思いまでしていたんだ。
それなら、お父さんがあれだけ私を警戒するのも、ムリはない……よね。
二人で、ペットショップを出る。エレベーターのそばに立っていたお父さんが、こちらをふりかえった。
「幸都、行くぞ」
そう言って、瀧島君に歩み寄ってくる。その手が、瀧島君の腕に伸ばされたとき。
瀧島君は、ぱしっとそれをふりはらった。
「如月さんといっしょでなければ、どこにも行かない」
そうして、瀧島君は私の横にぴったりとくっついた。
お父さんは苦い顔でそれを見ていたけれど、やがて「わかった」とだけ言って、エレベーターのボタンを押した。
****
エレベーターで地下まで降りると、そこは駐車場だった。
前を行くお父さんと少し離れて、瀧島君と私がならんでついていく。
「このまま、家に行くことになると思うけど……大丈夫?」
瀧島君に問われ、私は「うん」とうなずいた。
「そのために来たんだもん。大丈夫だよ」
本当は、胸の中は不安でいっぱいだった。
(いったい、どうすればいいんだろう……?)
どうすれば、何を言えば正解なのか。何が瀧島君にとって、一番いいことなのか。
考えれば考えるほど、わからなくなっていく。
困ったのは、瀧島君の気持ちも、瀧島君のお父さんの気持ちも、両方わかってしまうことだ。
瀧島君が、私を含めた美術部の仲間といっしょにいたいって思うことも。
お父さんが、瀧島君を危険な目にあわせたくないって思うことも。
どっちも自然で、尊い気持ちだ。
「乗ってくれ」
お父さんが、一台の車の前で立ち止まった。ウサギカフェの日に、私の目の前で瀧島君を連れ去った車だ。
その車に乗ることになるなんて、思いもしなかったな……。
瀧島君といっしょに、後部座席に乗りこむ。
静かに発進した車は、地上に出て、くもり空の町を走り始めた。
バックミラーに、お父さんのけわしい目元が映っているのが見える。
(目元だけでも、サキヨミって見えるのかな)
沈黙の中、ふと、そんなことを考えてしまう。
今まで私と瀧島君は、何度も困った場面につきあたってきた。
そんなときは、いつもサキヨミが状況を打開するヒントになってくれた。
今回も何かヒントになるサキヨミが見えて、私を導いてくれればいいのに。
どれだけ見たいと思っても、見えないときは見えない。
(どうしよう。頭では、きっと大丈夫だって思っても……心のほうが、納得してくれない)
瀧島君と私の間に立ちはだかる、お父さんという大きな壁。
あの手強いお父さんを説得して気持ちを変えられなければ、瀧島君と私は離ればなれになってしまう。
それは、瀧島君の気持ちにも、私の気持ちにも反したこと。
(「気持ちを大事にする」、「したいことをすればいい」……だよね、瀧島君)
心の中で、かつて瀧島君が教えてくれた言葉をくりかえす。
私の、気持ち。したいこと。
そんなの、もう、わかりきってる。
私は……瀧島君と、いっしょにいたい。何があっても、離れたくない。
瀧島君にとって、私がどんな存在なのかはわからない。必要じゃないどころか、もしかしたらお父さんが言うように、よくない存在なのかもしれない。
でも。たとえ、そうだったとしても。
私は、このたしかな気持ちを大事にしたい。
瀧島君といっしょにいるためなら、どんなことだってやる。
(気持ちだけじゃ、だめかもしれないけど……)
考えや言葉では、大人に敵わなくても。
ありのままの気持ちを、せいいっぱいぶつけることができれば……。
お父さんの心も、動かせるかもしれない。
窓の外、スムーズに動く車列をながめながら、私は静かに深呼吸をした。