7 思い出の土地
瀧島君のお父さんが住むマンション──つまり、瀧島君が小学校の頃まで住んでいたおうちは、駅から徒歩五分の場所にあった。
住宅街の一角にある、十階建てのマンション。お父さんの住む部屋のある四階までエレベーターで上がると、いよいよ緊張が最高潮に達した。
「さっきも言ったけど、如月さんはムリについてこなくてもいいんだよ」
廊下で瀧島君に言われ、私は首をふった。
「ううん、大丈夫。ジャマになっちゃうかもだけど、できればいっしょに行きたいって思ってる。でも……やっぱり、私がいると迷惑かな」
「そんなことないよ」
瀧島君が、私の正面に立つ。
「ここまでついてきてくれただけでも、本当にうれしい。僕らがいっしょに来たって知れば、父もおどろいて考えを変えるかもしれないしね」
そう言ってふわりと笑った。その優しい顔に、勇気づけられる。
「それじゃあ……行くよ」
瀧島君の言葉に、私は覚悟を決めてうなずいた。
ドアの前に立ち、チャイムを鳴らす。
私は瀧島君の少し後ろで、ドキドキしながらお父さんの登場を待った。
「……あれ。おかしいな」
しばらくして、もう一度チャイムを鳴らす。けれど、結果は同じだった。
「もしかして、留守?」
「そうかもしれない。ちょっと、確認してみるよ」
言うなり、瀧島君はスマホでどこかに電話をし始めた。
「来たけど、出ないんだよ。いないみたいで……うん、そう。──え?」
話しながら、瀧島君の顔がくもった。
電話を終えると、気がぬけたように長く息をつく。
「父親は、急きょ休日出勤になったみたいだ。さっき、母親に連絡があったらしい」
「今電話したのって、お母さん?」
「うん。昼過ぎには終わるだろうって言ってたらしいけど、どうだろう。ひとまず、帰りを待つしかなさそうだね」
「そっか……」
がっかりしたのと同時に、少しだけほっとする。
覚悟を決めたとはいえ、やっぱりまだ、お父さんと顔を合わせるのはちょっと怖かったんだ。
「しばらく、あたりを散歩でもしようか。如月さんに、見せたい場所があるんだ」
瀧島君の提案に賛成し、私たちは二人でマンションを出た。
駅とは反対方向に歩き始めると、その道すがら、瀧島君はいろいろなことを私に教えてくれた。
「この地蔵は、裏のおばあさんがお世話をしていていつも花で飾られているんだ」
「あのビルの三階で、母は生け花の講師をしていたんだ。二階には、姉が通っていた裁縫教室があるよ」
「ここは何年か前まで、駄菓子屋だったんだ。奥でお好み焼きを食べられるようになっていて、よく食べにきたんだよ」
聞くたびに、「へえ……!」と声がもれる。
この町には、私の知らない瀧島君の思い出がいっぱいあるんだ。
「着いた。ここだよ」
十分ほど歩いたところで、瀧島君が立ち止まった。
緑色のフェンスのむこうに、校庭と白い校舎が見える。
「ここってもしかして、瀧島君の……?」
「そう。僕が通っていた、小学校だよ」
(わあ、すごい……!)
私はフェンスごしに、その小学校を見渡した。私の通っていた小学校とは違って、木々や遊具が少ない。けれど校舎は大きくて、とても立派だ。
「あれ? プールがないみたいだけど……」
「屋内にあるんだよ」
「へええ……!」
瀧島君は、ここ──私がまったく知らない小学校で、六年間を過ごしたんだ。
「コウキ君とハルちゃんも、この学校に?」
「ああ。不思議だな。まだ一年経ってないのに……なつかしいよ、すごく」
そう言って、瀧島君は校舎をながめる目を細めた。
その優しい横顔に、ずきんと胸が鳴った。
(瀧島君は、月夜見市に引っ越してよかったって、思ってるのかな……)
そうたずねたら、瀧島君のことだから、「もちろん、思ってるよ」って答えてくれるだろう。
でも。もし何かが少しでも違っていて、瀧島君がまだお父さんの家に住んでいたとしたら……。
前にしたそんな妄想が、また頭の中を満たし始める。
そんなこと考えたって、しかたがないのに。
どうしてこんなにも、不安になってしまうんだろう……。
そう、思ったとき。
「──あれ? マジで、瀧島?」
背後から聞こえた声で、ふりかえる。
そこには、マッシュヘアの男の子と、ふわふわの長い髪をゆらす女の子が立っていた。
見覚えのあるその顔に、私はあっと息をのんだ。
「コウキ? それに、ハルも!」
瀧島君の顔が、ぱっと明るくなった。
コウキ君とハルちゃん。去年スペースシティで出会った、瀧島君の小学校時代の同級生だ。
私たちを見て、おどろいたように歩みよってくる。
「ひさしぶり。二人とも、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だよ。似てるヤツがいるなと思ってよく見てみたら、本人なんだもんな」
「おどろいたよね、コウキ!」
ハルちゃんがコウキ君と目を見合わせてうれしそうに笑う。それから私を見て、
「そちらは、お友達?」
「うん。部活の友達で、如月美羽さん」
「如月さん、はじめまして! ユキトの元同級生のハルです」
「はっ、はじめまして、如月です」
緊張で、少しだけ声がうわずる。
そっか。前に会ったときは「ミミふわ」だったから、今回が「はじめまして」になるんだ。
「ちょっと、前の家に用があってね。ついでに、近所を案内してたんだ」
「ふーん? わざわざ連れてくるなんて、相当仲がいいみたいだね」
ハルちゃんがにやにやしながら瀧島君と私を交互に見る。
「まあ、幼なじみだしね。如月さんには、すごくお世話になってるよ」
「なるほど。おれたちみたいな、腐れ縁ってわけか」
「コウキ、言い方!」
むくれたハルちゃんを見て、瀧島君がおかしそうに笑う。
それを見て、ずきんと胸が痛んだ。
(あれ……どうしてだろう)
瀧島君がうれしそうなのに、それを見て心が痛むなんて。
三人の間に、私には触れられない絆があること。
そのことに嫉妬して、勝手にさびしくなっちゃってるのかもしれない。
(私、自分勝手だな……)
「ね、ユキト。今日はあたしたち、これから出かけなきゃだからムリだけど、如月さんもいっしょに、いつかゆっくり話そうよ。次はいつ帰ってくる?」
ハルちゃんに問われ、瀧島君が困ったように眉を下げた。
「ちょっと、まだわからないな。都合がついたら、連絡するよ」
「そういえばおまえ、美術部だって言ってたよな。うちの中学、美術部は去年廃部になったんだよ」
そう言って、コウキ君が小学校のとなりの建物を指さした。気がつかなかったけれど、そっちに中学校が建っているらしい。
「もしおまえがうちの中学に転校してきたら、バスケ部に入ってもらいたいな。他のやつらも、瀧島ともう一度バスケしたいって言ってるんだぜ」
転校、という言葉で胸がどくっとはねる。
するとハルちゃんが「そうそう!」と笑顔で言った。
「今年の一年生メンバー、すごい活躍してるんだよ!」
「そうか。コウキたちの試合、見てみたいな」
「見るだけじゃなくて、いっしょにやろうぜ。絶対楽しいから」
「ああ。そうだな。きっと、楽しいだろうな」
瀧島君が、しみじみと何かを思い出すような表情で言った。
すぐ近くにいる瀧島君が、なんだか遠くにいるように感じられる。
(ああ……そっか)
お父さんの言葉が、頭の中によみがえる。
──感情は、これから先の長い人生のジャマをする『ノイズ』のようなもの。
今私がいだいている気持ちは、大人になってもずっと続くものなのかな。
私、この先の人生のことなんて、そこまで真剣に考えたことがなかった。
人生どころか、行きたい高校だって、まだわからないくらいなんだ。
瀧島君は、自分の未来のことをどう考えているんだろう。そこに、私はいるのかな。
瀧島君は……きっと、どこにいても、楽しくやっていける。
私には、絶対に瀧島君が必要だって思ってたけど。
その逆──瀧島君にとっての私は、たくさんある未来の可能性の中の、たったひとつでしかないのかもしれない。
「ところで、出かけるって言ってたけど。どこに行くところだったんだ?」
瀧島君がたずねると、ハルちゃんがあっと口を開いた。
「そうだった! あのね、今日のお昼十二時ぴったりに、私の推しの限定グッズが発売されるの!」
「推し?」
「最近ハルがハマってるバスケのアニメがあるんだ」
コウキ君が、ハルちゃんのバッグにつけられているアクリルキーホルダーにちらりと目をやる。
なるほど、バスケのアニメ。そういえば、夕実ちゃんと叶井先輩も、このアニメの映画を見に行ったって言ってたっけ。
「もう、急がなきゃ! そろそろバスが来ちゃうよ、コウキ!」
「一本くらい逃したって平気だって」
「だめ! 余裕を持ってならびたいの!」
そう言うと、ハルちゃんはコウキ君の腕をつかみ、私たちに手をふった。
「それじゃあね、ユキト、如月さん! また今度、ゆっくり会って話そうね!」
「またなー」
笑顔で去っていく二人に、私も手をふって応えた。
(笑顔、ぎこちなくなっちゃってないかな……)
ぼんやりと、そんな心配をしたとき。
──じじじ……。
えっと思った瞬間。
それは、ノイズとともに始まった。