6 朝の訪問者
目の前に、深刻そうな顔をした瀧島君がいる。
「如月さん。実は僕……来月から、アメリカに行くことになったんだ」
「あっ、アメリカ!?」
あまりにとつぜんのことに、私は頭が真っ白になってしまった。
「なっ、なんで? どうして……!?」
「むこうじゃないとできない勉強があるんだ。父さんにすすめられて、僕も考えを変えたんだよ。自分の将来のために、今すべきことに全力をかけたいんだ。大丈夫、十年したら戻ってくるよ」
「じゅじゅ十年っ!?」
がく然としていると、横からレイラ先輩が顔を出した。
「大丈夫! 飛行機で十二時間なんてすぐだよ!」
「──ひゃっ!」
気づくと、ベッドの中だった。
枕元の時計は、八時過ぎを指している。一瞬あせったけど、土曜日の朝だということに気づいてふうっと息をついた。
(いやな夢、見たな……)
とつぜん瀧島君がアメリカに行くことになってしまって、この先十年も会えない……だなんて。
ちょっと考えただけで、体が震えてきちゃいそうだ。
昨日、いろいろとなやみすぎちゃったせいかな。
考えれば考えるほど、何が正しいのかがわからなくて、不安だけが大きくなっていくみたいだったんだ。
(……あれこれ考えたって、しかたがないよね)
トーストの朝食をとりながら、ふうっと長く息をつく。
お父さんと私、どっちが正しいのかなんて。私がいくら考えたところで、結論なんて出ないよ。
ただひとつ、たしかなのは。「瀧島君といっしょにいたい」っていう私の気持ちは、何を言われようと変わらないってことだけだ。
瀧島君だって、お父さんにしたがって私から離れるようなことはしないって言ってくれたし。
きっと……きっと、大丈夫だよ。
心の中でそう唱えてから、不安をいっしょに飲みこむように牛乳をのどに流しこんだ。
そうして歯みがきを終え、リビングでくつろいでいたとき。
──ピンポーン
「あら、こんな朝からだれかしら」
インターホンの音に、台所にいたお母さんが反応する。
なにげなくモニターのほうを見た私は、そこに映っている人物を見てあっと息をのんだ。
(たっ、瀧島君!?)
「わ、私、出る!」
お母さんを制止して、あわててモニターのところまで駆けつける。
「はいっ!」
通話ボタンを押して言うと、画面のむこうの瀧島君がはっと目を見開いた。
「おはようございます……如月さん?」
「あ、あの、今行きます!」
通話を切り、急いで自分の部屋で着がえる。
「だれ?」というお母さんの声に「友達!」と答えて、すぐさま玄関の外へと飛び出した。
エレベーターでホールに降りると、エントランスの外に瀧島君が立っているのが見えた。
「瀧島君、どうしたの?」
「こんな時間にいきなり、ごめん。どうしても、直接会って話したくて……」
そう言うと、せつなげなまなざしを私に向ける。
「実は……転校、することになるかもしれないんだ」
え、と唇からかすれた声がもれる。
「てん、こう?」
言いながら、血の気が引いていくのがわかった。
転校って……そんな、まさか。
それじゃああの夢は……もしかして、正夢だったの!?
「てっ、転校って、いったいどこに? まさか、外国とか……」
「いや、父のいる家に戻されるんだよ。ここから電車で二時間ほどの、コウキとハルが住んでいる町だ」
「二時間……」
ハルちゃんっていうのは、コウキ君と同じく瀧島君の小学校時代の同級生の女の子のことだ。
二時間と聞いてつい安心しそうになり、いやいやと首をふる。
転校は、転校だ。瀧島君が、月夜見中からいなくなるということ。
毎日顔を合わせることも、いっしょに部活をすることも、サキヨミ会議をすることもできなくなるっていうことだ。
「そんなの、いや……!」
思わず飛び出た言葉に、瀧島君が「うん」とうなずいた。
「僕も、絶対にいやだ。だからこれから、父に抗議しにいこうと思う。それを伝えにきたんだ」
言いながら、瀧島君はぐっと拳をにぎった。
「僕は、絶対に負けない。父を説得して、転校させるなんて考え、きっぱりなくしてもらう」
「瀧島君……」
「だから……無事を祈ってて」
瀧島君は、少しさびしげな笑顔を見せた。
「それじゃあ、行くよ。本当に、とつぜん来てごめん。いい土曜日を」
そう言うと、くるりと背を向けて歩き出す。
その遠ざかっていく背中をしばらく見つめてから、私は両手をぎゅっと握りしめた。
「瀧島君、待って! 私も行く!」
ふりかえった彼の顔は、おどろきに染まっていた。
「如月さん……どうして」
「だって……お父さんが転校なんて言い出したのには、私も関係あるんだよね」
瀧島君は、否定も肯定もしなかった。どう答えたものか迷うように、静かに目を伏せる。
「僕は……如月さんを、父に会わせたくない。父が如月さんを傷つける場面を、見たくないんだ」
「傷つかないよ」
瀧島君に駆け寄り、続ける。
「お父さんに何を言われたって、平気だよ。瀧島君と私のことは、私たちが一番よくわかってる。だから、怖くない。もし瀧島君が転校することになったら、そのほうがよっぽど悲しいよ」
「……如月さん……」
目を上げた瀧島君が、ゆっくりとほほえむ。
「……ありがとう。本当は……いっしょに来てほしいと思ってたんだ」
その言葉に、私は安心して顔をほころばせた。
「待ってて。すぐに準備してくるから!」
****
二人で電車に乗ると、瀧島君はくわしいことを話してくれた。
「昨日の夜、父から電話がかかってきたんだ。それで、先生から聞いたっていう僕の学校での話をし始めて。最初はよかったんだけど、父が『部活に毎日行くのはやめたらどうだ』って言いだしたんだ」
「えっ、部活に……!?」
「ああ。部活じゃなく、もっと勉強に力を入れるべきだってね。もちろん、反論したよ。けどそのうちに、だんだん僕も父も感情的になって……大げんかになってしまったんだ」
その結果、お父さんが激高して、「二年生になるタイミングで瀧島君を引き取り、転校させる」と強引に決めてしまった……ということだった。
瀧島君のお母さんがお父さんを説得したけれど聞く耳を持たず、電話を切られてしまって。
その後どれだけかけ直しても、お父さんは電話には出てくれなかったんだって。
「二年生……そっか、すぐにじゃないんだ」
少しだけ、よかったと胸をなでおろす。でも、二年生になるまで、あと三か月しかない。
転校そのものを取り消してもらわないかぎり、瀧島君と私は離ればなれになってしまうんだ。
「このこと、美術部のみんなには言った?」
「いや、まだだ。心配かけたくなくてね。レイラ先輩は受験だし、勉強に集中してほしいから」
「それじゃあ、知ってるのは私だけ?」
そうたずねると、瀧島君は少しとまどったような顔でうなずいた。
「そうだね。如月さんには、知っておいてほしくて……」
「ありがとう。一番に教えてくれて」
そんな場合じゃないのに、ふっと心があたたかくなる。
瀧島君はこんなときでも、私のことを大切なパートナーだと思ってくれてるんだ。
本当に、うれしい。なんとしても、力にならなくちゃっていう気持ちになってくる。
「ねえ、瀧島君。たしかに、レイラ先輩には知らせないほうがいいかもだけど……夕実ちゃんに話してみたらだめかな。夕実ちゃんに言えば、自動的に叶井先輩や、もしかしたらチバ先輩も知ることにはなっちゃうと思うけど……」
「そうだね。いずれ言わなければならないことだし、変に隠しごとしたくないし。それに……そのほうが頼もしいというか、安心できるな」
「うん。私も、そう思っていたの。お父さんに会いにいくのは私たちだけでも、それを応援してくれる存在がいたほうが心強いんじゃないかなって」
そう言った私に、瀧島君は笑みを浮かべた。
「じゃあ、沢辺さんに事情を伝えるよ。今、如月さんといっしょにいることもあわせて」
「うん!」
瀧島君がスマホを取り出し、チャットアプリにメッセージを入れた。
すぐに夕実ちゃんから「えええ!?」「どういうこと!?」と返事が来る。
すると、私のスマホにもメッセージが届いた。
『沢辺夕実:美羽ちゃん、がんばって! なんとしても、瀧島君を手離しちゃだめだよ!』
夕実ちゃんの表情が思い浮かぶようで、私はくすりと笑った。
『如月美羽:うん、ありがとう! がんばるね!』
(……とは、言ったけど……)
がんばるって、どうがんばればいいんだろう。
あのお父さんを相手に、私、何ができるのかな。
何を言っても、大人の言葉ではねのけられてしまいそう。
そう思ったとたん、心臓がドキドキとさわぎ出した。
どうしよう。勢いでついてきちゃったけど、具体的なこと、何も考えてなかった……!
「次、乗り換えだよ」
「あ、うん!」
瀧島君に言われ、あわてて笑顔を返す。
とにかく今は、落ち着かなきゃ。
むやみに反発したところで、きっとこの間と同じようにやりこめられてしまう。
(なんとかして、瀧島君のお父さんの気持ちを変えられるといいんだけど……)
今の瀧島君のことをよく見て知ってもらえたら、考え方も変わるかな。
ぐるぐると考えていると、電車が駅のホームに到着した。
(よし。とにかく、やれることをやろう……!)
席を立ちながら、私は静かに深呼吸をした。