教室に帰ったら、アキが他のグループのコたちとおしゃべりしてた。
玲連は委員会の用事で呼ばれて、桜はお手洗いに行った後、どっちももどって来ないんだって。
教室の時計は、昼休み終了まで残り十分。
玲連は図書委員だから、図書室からあたってみたけど、見つからない。
「やっべ。雨降ってるじゃん! 二階の渡り廊下から回る?」
「もう時間ねーよ。いいよ、本はビニールかかってるし、行っちゃおうぜ!」
廊下の窓から、男子たちの元気な声が聞こえてきた。
今、「本」って言った!?
窓から見下ろすと、真下の出入り口に、生徒たちが出てきたところだ。彼らが押す台車には、本が山と積まれてる。
「樹ちゃん、あれ、図書委員かもっ」
「行ってみよう!」
わたしたちは上履きをバタバタ鳴らして階段を下りる。
ちょうど中庭を駆けていく生徒たちの、後ろ姿が見えた。
校舎のとなりの棟に、本を運びこもうとしてるみたいだ。
その一番後ろに、玲連がいるっ!
彼女も本の束を抱え、水たまりを跳ねて中庭を横切っていく。
「邪気は感じないけど、たしかになにか……」
樹ちゃんが目をすがめて、玲連を観察する。
わたしも遠ざかる彼女を見つめる。その視線に気づいたのか、彼女がこっちを振り向いた。
絹糸みたいな雨のカーテンごしに、視線がぶつかる。
「今村玲連」そのものの姿。だけど、やっぱりなにか変だ。
初等部の頃から毎日毎日、六年以上も、朝から晩まで一緒に過ごしてきたんだもん。
「やっぱり、ちがう……!」
犯人は大マガツ鬼で、玲連がまた黒札を貼られてるのが正解……!?
今度はどんな札を貼られちゃったんだろう。なにがどうちがうのか、ハッキリ言葉にできないから、札の字を当てるの、難しいよ。
わたしは玲連の足もとの水たまりに目をとめた。
……だったら──!
わたしは頭の中の『面白難解漢字辞典』のページを、猛スピードでめくる。樹ちゃんが白札を渡してくれた。
札に千花の穂先を置くと、軸を持つ指から筆へ、さっそくチカラが流れ込む。ドンッと心臓に衝撃を感じて、よろめきそうになった。
昨日、術を使った時よりも、すごい……っ。
体の底から湧き上がるチカラが、出口を見つけて、一気に押し寄せてくる──!
駆けずり回りたくてしょうがない穂先を、なんとか抑えて、最後の一画、払いまで書き上げるっ。
「ミッ、ミコトバヅカイの名において、千花寿ぐ、コトバのチカラッ」
小声の呪文と共に投げた札は、雨の糸を一直線に断ち、玲連の足もとへ!
上履きが踏みしめる水たまりへ、バシャッと音を立てて貼りついた。
白い煙が噴き上がり、彼女の全身を包む。
先に走っていった図書委員たちは、みんな気づかずに向こうの校舎へ駆け込んでいった。
「効いたねっ」
「うん!」
今の白札は、水たまりに映りこんだ玲連の姿、つまり水鏡の「影」を、「彡」のパーツを取っちゃって、『景』にしたんだ!
「景」は、お日さまの「日」と、読み方を表す「京」のパーツからできてて、意味は、「光」。
だけどそれだけじゃなく、「様子」っていう意味もある。「太陽の光に照らし出されて、くっきりとあきらかになった様子」っていうイメージからなんだ。
これで、玲連の様子を、変なところまであきらかにできるかな──って。
煙の中から、バサバサッと本が地面に落っこちる音が響いた。
あっ、本が濡れちゃう!?
拾いに行こうと、足を前に踏み出す。
でも、煙が雨に流された跡を見つめて──、わたしは、ぴたっと足を止めた。
玲連が立っているはずの場所に、ほのかな光を放つ、人間のシルエットが浮かんでる。
振り向いてわたしを見つめる、さっきの玲連の姿、そのまんまの形だ。
しかもその人型の光は、雨に打たれて、みるみる小さくなって……。
ふつっと、かき消えた。
えっ。えっ!? 玲連が消えた!?
わたしは樹ちゃんと視線を交わす。彼も目を見開いて、蒼白になってる。
「わ、わたし、なにか間違っちゃった? 『様子』の意味の『景』に書き換えたんだよ!?」
樹ちゃんに言いながら、あ、と、口を手で覆った。
わたし、さっき自分で説明したばっかりだよ。
「景」は「光」の意味だ……って。
「書き換えが、わたしの思いどおりに働かなくて、『光』のほうで発動しちゃった、の、かな……?」
語尾を上げて問いかけながら、もう、そうだとしか思えない。考えてたのとちがう意味で、術が働いたんだ。
全身の毛がブワッと逆立った。
「わたし、玲連を消しちゃった──!」
もう一回書き換えれば、元にもどる!?
だ、だけどっ。雨にかき消された光は、もう跡形もない。札を貼るところがない。
どうしよう……!!
カクッとヒザから力が抜けたわたしを、樹ちゃんが抱き止めてくれた。
「待って、りんねちゃん。きっとちがう」
「ちがう……?」
「人間一人を、あんな風に完全に消し去るなんて、大量のチカラを使うはずだ。今のりんねちゃんは息切れすらしてないよね? そこまでの書き換えは、していないよ」
樹ちゃんは冷静だ。でもいつもの穏やかな彼の口調より、ずっと早口だ。
ごめん、樹ちゃん。わたし知ってるの。
わたしの魂、自分でも怖くなるようなチカラが宿ってる。ちょっと蛇口の栓をゆるめたら、あふれ出して止まらなくなるくらいの。
五年前は、モモお姉ちゃんと匠お兄ちゃんがピンチだったから、無我夢中で札を書いた。だけどあの時は「このまますべて出したらダメ!」って、心の中で、だれかがストップさせてくれたんだ。
とにかくあの時も、やろうと思えば、まだできた。
だからっ。わたし、お役目で命を削られるとしても、何度か術を使うくらいなら大丈夫な気がしてた。
でもそれより、自分のチカラをコントロールできなくて、友達を消しちゃったかもしれないならっ。
そっちのほうが、百倍怖いよ……!
「な、なに、今の」
真後ろから聞こえた、震え声。
わたしは心臓を素手でつかまれたみたいに、その場で棒立ちになった。
振り向きたくない。けど、確かめずにもいられない。
わたしはゆっくりと、体を後ろに向けていく。
そこには、やっぱり……アキが立ってた。
彼女の見開いた目は、五年前と同じ色だ。
わたしを──、「怖い」って思ってる目。
「りんねが、玲連を消した……?」
「ア、アキ。ち、ちがう」
わたしは首を小さく横に振る。
ちがくない。わたしが消したんだ。
一歩前へ出たら、アキはビクッと肩を跳ねて、後ずさる。
そこで、予鈴が鳴り始めた。
スピーカーの乾いた音が、わたしたちの間に響く。
アキは身を翻して、校舎のほうへ走り出した。わたしは追いかけられない。
そして彼女は、校舎から出てこようとした生徒とぶつかって、たたらを踏む。
その相手は、八上くんだ。
まさか、今さっきの、八上くんも見てた……!?
「裏切り者」
八上くんが、アキに向かって、一言。
「ハ!? なんでうちがっ」
アキはたじろいで一歩下がる。
「藤原を〝天使〟とか言って、友達ヅラしといて、結局それかよ」
「だ、だって! 八上も見てたんじゃないのっ!? 玲連を消しちゃったんだよ!? あんなの、こ、殺したのと、ひ、ひ、人殺しと同じじゃん!」
「ちがう」
「ちがくないでしょっ!? あんなふうに人を消せるなんて──、」
わたしは何を言われるのか予想できてしまって、息がつまる。
やだ、聞きたくない。おねがい、言わないで。
後ろからギュッと耳を覆われたと思ったら、樹ちゃんだ。
「ふつうじゃないよ!」
樹ちゃんの指の隙間から、言葉が耳を貫いた。
それは体の中を反射して、わたしの全身を内側から刺し貫く。
ふつうじゃ、ない。
知ってる。そんなこと、わたし、痛いほど知ってる。
ふつうになれなくて、ごめん。玲連を、け、消しちゃって、ご、ごめんなさい……っ。
アキは校舎に駆けこんだ。足音が遠ざかっていく。
立ちすくむわたしを、樹ちゃんが後ろからぎゅうっと抱きしめて、何か言ってくれた。
たぶん、「気にしちゃダメだよ」とか、そんな言葉だった?
でもわたしは頭がまっしろで、耳までボウッとしてよく聞こえない。
「藤原、落ち着けよ」
八上くんがわたしの前に立った。彼はなぜか、頭からびしょ濡れだ。
わたしを正面から見つめる目に、「怖い」って思ってる色はない。いつもどおりの淡々とした彼、そのままだ。
「おまえが消した、今村玲連。あれ、ニセモノだ」
「──え?」
「本物の今村じゃなかった。だから、ショック受けなくていいって言ってる」
口数の少ない八上くんが、わざわざ言葉をたしてくれた。
わたしは目をいっぱいに開き、彼を見つめ返す。
「きみは、なにを知ってるんだ?」
まだ声の出てこないわたしより先に、樹ちゃんが聞いてくれた。
「オレ、さっき、安室桜がプールに飛び込んだのを見かけたんだ」
「……桜が、プールに……?」
桜はたしか、お手洗いの後、そのまま教室にもどってきてなかったんだっけ。
どうしてこんな雨の中、真冬のプールに? 飛び込んだって、……全然、意味がわかんない。それにその話が、どうやって今の玲連がニセモノだって話につながるの?
「空き教室で昼メシ食いながら、窓から外を眺めてて。偶然、あいつがプールに倒れ込むのを目撃したんだ。ヤバいだろって、あわててプールまで見に行った。フェンスの出入り口のカギが壊れてたから、中まで入ってみたけど、……たぶん、だれも沈んでなかった。だいたい、ハデに落ちたのに、水の中にスッと入ってって、水柱も上がらなかった。なんか変だったんだよ」
八上くんは雨の中、傘もささずに駆けつけたから、こんなに濡れちゃってるんだ。
ウソじゃなさそう……っていうか、八上くんも邪気が見えるんだから、わざわざウソなんてつかないよね。
──彼は、しばらくプールサイドで呆然としてたんだって。
そしたら、プールの底から、ぬぅっと「桜」が浮き上がってきたんだそうだ。
彼女は水の上をすたすた歩いてきて、プールサイドに下り立った。
絶句して見つめてたら、桜は、「ハチミツくん、もう授業始まっちゃうよ?」って笑って、そのまま教室へもどっていった──って。
人間は水の上なんて歩けない。しかもその制服は、ずぶ濡れになってるはずなのに、まさに今、雨に打たれて濡れ始めたみたいに、ほとんど乾いてた──って。
「だからあれは安室じゃない。そっくりなニセモノだった」
八上くんの話を聞きながら、わたしは喉を鳴らす。
桜のニセモノがプールから生まれて、本物と入れ替わった……ってこと?
八上くんは、中庭の、玲連が消えたあたりに目を動かした。
「今村のほうだって、朝からなんか、違和感あっただろ」
「う、うん……。八上くんも、やっぱり変だって思ってたんだ」
「さっきの安室は、今村の変な感じと似てた。こんな変な事が起こるのは、きっとマガツ鬼ってやつの仕業だと思って、あんたたちをさがしに来たんだ」
「りんねちゃんっ。ならやっぱり、さっきの玲連さんはニセモノだったんだよ。よかったぁ……!」
樹ちゃんが大きな息をつく。
わたしも頭が少しずつ働きだした。
たしかに、そんな事が現実に起こったなら、マガツ鬼の……、大マガツ鬼のせい?
今、消しちゃったのは、たぶん、大マガツ鬼が黒札で作った「ニセモノ」だったんだ。
「じゃあ、わたし、本物の玲連を消しちゃったワケじゃない……」
わたしは八上くんの腕をつかんだ。
「──あっ、ありがとう」
「ハ?」
「ありがとう! わたし、友達を消しちゃったかもって、す、すごく、怖かったから……っ」
わたしのほうが、消えちゃいたいくらいだった。
アキに怖がられたのはショックだし、術を使ったところを見られちゃったのは、もうどうしようもないけどっ。玲連が無事でいてくれたなら、ほんとに、ほんとによかった……!
安心したとたんに、目の奥が熱くなった。こらえそこねた涙が、ほっぺたを転がり落ちていく。
八上くんはギョッとして身を引き、樹ちゃんは「りんねちゃん?」と、後ろから覗き込んでくる。
わたしは情けない涙を見られる前に、袖でごしごし顔をふいた。
「そ、そうだっ。玲連と桜に貼られた札は、また『影』かな。『影武者』っていう意味の『影』で」
むかしのおサムライさんが使うソックリさんを、「影武者」って言うよね。
あれは、「武者の姿を映した」っていう意味からだと思うんだ。「水影」とかと同じ「影」の使い方で。
「なるほど、今日の玲連さんは、『影』のニセモノだったんだね。──あれ? でも、ずっとニセモノが教室にいたなら──。本物の玲連さんは……、どこに」
樹ちゃんが眉根を寄せる。
ホントだ。本物はどこに行っちゃったんだろう。
桜は、プールで本物とニセモノが入れ替わったんだよね? じゃあ玲連も同じふうに?
──あ! そういえばわたし、昇降口で玲連を見かけた気がしたのに、彼女はとっくに教室に来てて、変だなって思ったことがある。体験会の翌日の朝だ。
あの時点でもう、玲連の「影」は生まれて、玲連が二人いる状況になってた?
その二人はしばらく別々に動いてて。その後、本物はわたしとケンカの最中、「影」の札で消されちゃった。だけど「影」が代わりにおうちに帰って、翌朝の今日も、勝手に登校して来てた……?
──そうだったとしたら。
本物の玲連は、もしかして、教室で消えたまま、もどって来てない?
教室の床に、変なシミがあったよね。
あれ、まさか……っ。あの影こそが、本物の玲連? 玲連は、ずっとあそこにいた……!?
「まずはとにかく、プールに行ってみよう! 大マガツ鬼がいるかもしれないっ」
「う、うんっ」
すぐ教室のシミを確かめに行きたいけど、犯人の大マガツ鬼を倒すのを先にしたほうがいい?
そしたら、ニセモノと入れ替わった桜も元にもどせるし、玲連のほうも、今度こそ、「影」から帰って来られるよね。
樹ちゃんが文鎮を抜く。わたしも千花を持ち直す。
数歩駆け出した樹ちゃんは、足を止めた。
わたしが、動かない──ううん、動けないままでいるから。
ヒザがカクカク細かく震えてる。
足を前に出せない。
──あれ? わたし、怖い?
そう自覚したとたん、耳の後ろに、血の気が引く音が聞こえた。
……次も、チカラをコントロールしそこなうかも、だよ。
さっきの「景」は、相手がニセモノでよかったけど、思ったとおりに発動しなかったのは、本当だもの。
ひとつの意味しかない漢字なんて、めったにないよね。
いろんな意味を持つ漢字を、思いどおりに意味をピタッと決めて、効果を発揮させるのって、どうすればいいの? モモお姉ちゃんはどうやってた?
札に字を書いてる間、ひたすらその意味だけを考えてればいい? それとも札が貼りつくまで集中してなきゃダメ? 効き始めるまで? 効き終わるまで?
昨日、五年ぶりに札を書いた時、大好きな千花と野原を駆けまわってるようで、すごく気持ちよかった。
だけどあれは、暴走すれすれだったのかもしれない。
今日は危ないような気がしたんだ。
ちょっとでも心がブレたら、チカラが洪水みたいに溢れて、わたしの理性じゃ抑えきれなくなりそう。
玲連と桜を助けようとして、今度こそ本物を消しちゃうかもしれない。
一度ダメかもって思ったら、千花をどうやって使っていいのかすら、みるみるわからなくなっていく。
まるで、急に歩き方を忘れちゃった人みたいに。
「……りんねちゃん?」
樹ちゃんが心配そうに、こっちへもどってきた。
わたしはたぶん真っ白な顔色で、樹ちゃんを見上げる。
……怖くて、できない。
そう、正直に言う? お役目をやるって引き受けたばっかりなのに、期待外れだよね。わたしだってモモお姉ちゃんみたいに、頼りになるミコトバヅカイをやりたいけど、でも……っ。
アキの「ふつうじゃない」の声が、まだ頭の中で響いてる。
きっとアキは今ごろ、教室で、みんなにさっきの話をしてる。もうみんな、わたしと今までどおりには接してくれないよね。
だけど、ちゃんと本物の玲連と桜を連れて帰れたら、おかしな術を使うのはバレても、「わたしが消した」っていう誤解は解けるんだ。
でも、でもね。逆に、また失敗して、二人ともこの世から消しちゃったら、わたし、今度こそほんとに「人殺し」だよ。
さっきから頭に浮かんでくるのは、自分の事ばっかり。やっぱり全然〝天使〟じゃない。
期待外れな自分が、樹ちゃんに申し訳なくて、ますます嫌いで、どうしようもない。
千花を持つ手がカタカタ震えてる。
「──ごめん。りんねちゃん、そんな顔しないで」
樹ちゃんがわたしの手を、千花ごと、両手でギュッとくるんだ。
「無理にお役目をすることはないんだよ。嫌だと思ったら、そこでやめてくれたほうが、ぼくもうれしいんだ」
樹ちゃんはわたしから手を放す。あったかい手から伝わってきたぬくもりが、サッと冷えてしまう。
「依がいたら、りんねちゃんを任せられたんだけどな……。しょうがない、ミツ、おまえでいいや。りんねちゃんを保健室まで送ってくれ。もしマガツ鬼が出てきたら、おまえが必ず守れよ」
「なんでオレが。オレは無関係だ。っつか、呼び捨てにすんな」
「おれは、昨日おまえがりんねちゃんにひどい事を言ったの、忘れてないからな。今、きっちり守りきれたら許してやるけど、万が一なにかあったら、どうなるか覚悟しとけ」
まるで別人みたいな言い方と眼光の鋭さに、わたしは唖然として顔を上げる。八上くんのほうも、ぽかんと彼を二度見する。
「い、樹ちゃん?」
「じゃあちょっと行ってきます。こっちは任せて、保健室で休んでてね」
にっこり笑い直した顔は、いつもの樹ちゃん……だけど。
彼はわたしたちの横をすり抜けて、プール方面の昇降口へと走っていく。
わたしはまだ震えの止まらない手を見下ろし、そして、遠ざかる樹ちゃんの背中に目をもどす。
一人きりでどうにかするつもりだ。わたしがもうミコトバヅカイとしてダメだって、見切りをつけて。
そう考えた時、雨まじりの風が、サッと吹きぬけた。
その雨のにおいに、依ちゃんと三人で、山の秘密基地で遊んだ時の記憶がよみがえった。
あの時、「雨のにおいがするから帰ろう」って言い出したのは、依ちゃんだった。でも、わたしはまだ遊んでいたかったんだ。山を下りたら、もう東京に帰らなきゃいけない日だったから。
まだちぃくんが赤ちゃんで、家ではみんなお世話にかかりきりだから、ちょっと寂しかったの。
なのに依ちゃんは、「雨の山は危ないから」って、ぐいぐいわたしの手を引っぱって、山を下りていく。樹ちゃんも、その時はわたしの味方をしてくれなかった。
そんな風に急ぐ二人の姿が、わたしと早くサヨナラしたいんだ──って思えちゃって。
わたしはとうとう、「みんな、りんねがいたらジャマなんだ」ってグズって、ほんとにバカなんだけど、「トイレに行く」って、双子から離れて、ガムシャラに山道を走りだした。
もちろんすぐ迷子になって、ヒザを抱えてうずくまってた。
そうしたら、二人は五分もたたずにわたしを見つけて、ぎゅうっと抱きしめてくれた。「りんねのバカ!」「ぼくたちが、りんねちゃんを大好きで、ぼくたちだってバイバイしたくないってこと、信じてもらえなかったら、悲しいよ」って。
わたしはあの時、双子の気持ちを試したんだ。ほんとにわたしの事を好きなの? いなくなったら捜してくれるの? ちゃんと見つけてくれるの? ……って、確かめたくて。
双子はそれに、全力で応えてくれた。わたしは二人を試した自分が恥ずかしくて、でもうれしくって、ベソをかきながら、手をつないで山道を下りた。
そして矢神さんちのお屋敷に着いたとたん、本当にすごい大雨が降り出したんだ。
「藤原、保健室行くんだろ」
頼まれちゃった手前か、八上くんが声をかけてくれた。
わたしは現実に引き戻されて、ごくっとツバを呑む。
あの日の樹ちゃんが、わたしを見つけて抱きしめてくれた時の、自分まで泣きそうな顔が、ついさっきの「任せて」って言ってくれた彼の笑顔に重なった。
樹ちゃんがわたしに見切りをつけて、あきらめるなんて事は、……ないよ。ただほんとに、わたしの気持ちを大切にしてくれたんだ。
わたしは胸に手をあてた。
自分の事は全然信じられないけど、双子の気持ちなら、信じられる。
文房師は、マガツ鬼をしとめる攻撃はできないんだって。なのに、たった一人で、大好きなお兄ちゃんを行かせていいの?
桜と玲連だって、本物がもどって来られなかったら、二度と会えなくなっちゃうんだよ!
わたしは力の入らない指で、千花を握りなおす。
自分のチカラをコントロールできる自信なんてない。玲連を消しちゃったと思った時の、身の凍る感じも、アキがわたしを怖がる引きつった顔も、頭にまだ残ってる。
だけど……っ。
「八上くん、わたしは大丈夫。ありがとうございました!」
「あっ、おい!」
響き始めた授業開始のチャイムをふり切って、わたしは全速力で走りだした。
第7回へつづく
書籍情報
- 【定価】
- 1,540円(本体1,400円+税)
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- 【サイズ】
- 四六判
- 【ISBN】
- 9784041147412