◯
夕景の街並みは、私がこの街で好きなものの一つだ。
会社帰りの人や、主婦たちで市場が賑わい、レンガ造りの家からはシチューの香りがする。
一日の終わり、誰もがちょっと疲れて、ちょっと緩んだ顔をして、自分の帰るべき場所へと向かっていく。
そうした光景が、少し優しく、少し切ない。
歩いていると、不意に足元になにか温かいものが触れた。
カーバンクルがカリカリと私の足を引っ搔いていたのだ。
「そういえばあんたいたね。すっかり忘れてたわ」
持ち上げるとカーバンクルはキーキー鳴き声をあげた。怒っているらしい。
「よしゃよしゃしゃ」と頭をぐしゃぐしゃに撫でると、喜んでるのか「ギュウ……」と潰れたような声を出してカーバンクルは沈黙する。そう、喜んでいるのだ、これは。それはもう絶対である。
私はカーバンクルを肩に乗せると、来た時と同じように、街を歩いた。
「お、ファウスト様のところの嬢ちゃん! 今帰りか?」
「そっすね」
「お弟子さん、仕事お疲れ」
「お前もなー」
「ちょっとちょっと! これ、ファウスト様に持っていっておくれ! 夕飯のおかずの差し入れ」
「あんがとおばちゃん」
街を歩くと、いろんな人の声が耳に入る。何だか今日は、その笑顔が妙に心に残る。
何となく、昔、お師匠様とこの道を歩いたことを思い出した。
幼い頃、私はよく街の子供にいじめられていた。喧嘩して、反撃をしても数の差で負けてしまい、悔しくて街の広場で拳を握りしめていた時。
「こんなところにいたのかい、メグ」
いつもお師匠様が、私を迎えに来てくれたのだ。
「一体どうしてケンカするのかね、この子は」
「だってあいつら『邪悪な魔女の手下だ』って言うんだもん!」
私は唇を嚙んだ。
「お師匠様は、すごい魔女なのに……」
「そうか、私のために怒ってくれたんだね」
私が頷くと、お師匠様はどこか嬉しそうな顔で私の手を取った。
「パンでも買いに行こうか、メグ」
そう言うと、ゆっくりと、私の歩調に合わせて歩いてくれる。
「ねぇ、お師匠様。私、ここにいない方がいいのかな」
「どうしてそう思うんだい?」
「だって、私がここにいたら、どんどん皆がお師匠様のこと悪く言っちゃう……」
すると、俯く私の顔をお師匠様は両手で包み、グイと引き寄せた。お師匠様の大きな瞳に、私の姿が映っている。
「いいかい、メグ。自分のしたことが間違っていないと思うなら、ちゃんと顔を上げて、その胸に誇りを持つんだ」
「誇り?」
「そう。胸に誇りを抱けば、どんな時でも立っていられる。たとえ世界中が敵に思えても、ちゃんと自分の正しいと思ったことを貫ける。大切な人が傷つけられた時に戦える強さと勇気を、お前は持ってる。そこに誇りがあれば、お前は無敵だ」
お師匠様は私の目をジッと見つめると、見覚えのある不敵な笑みを浮かべたのだ。
「胸に誇りを持ちな、メグ。誇りを持つお前を、私もまた、誇りに思うよ」
そして、お師匠様は、焼きたてのパンを私に買ってくれた。
夕暮れ時、ほのかに香るパンの匂いが香ばしくて、握られた手は温かくて。
ケンカに負けたことも忘れて、この時間がずっと続けばいいのにと、幼心に思ったのを覚えている。
「メグ、見てご覧。宵の一番星だ。綺麗だろう」
「うん……」
そのお師匠様の声に、幼い頃の私は居場所をもらったような、生きていていいと言われたような、そんな気がしていた。
その時の私たちの姿は、アンナちゃんとヘンディさんが手をつないだ姿によく似ていたと思う。
お師匠様は、私に『死』を告げた。
でも、何となくわかっていた。それが、ただ余命を宣告したわけじゃないと。
お師匠様がやることには、いつも意味がある。
少なくとも、本当に無理な課題を出して、私を絶望させるようなことは絶対にしない。
「いつか大魔導師に……か」
見上げた空には夜の色が混ざっており、あの日と同じ宵の一番星が輝いていた。
私が大切な居場所をもらった、あの日と同じ一等星が。
「あんなこと言っちゃったら、まだ死ねそうにはないね、こりゃ」
私が呟くと「キュウ」とカーバンクルが鳴いた。
「お前、何だか嬉しそうだな?」
「キュイ?」
「生意気な奴め」
私はカーバンクルをそっと撫でた。
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すっかり日も暮れた頃、ようやく家に着くことができた。
帰った私を見るやいなや「何だい何だい」とお師匠様はどこか嬉しそうに声を出す。
「死んだ魚みたいな顔で帰ってくると思いきや、ずいぶん光を取り戻してるじゃないか」
「人を魚と一緒にしないでいただきたい」
私はふてくされた顔でそう言うと、ビンに入った涙らしきものをお師匠様に見せた。
二人の瞳から流れた涙は、小さな丸い粒となり、ビンの底を転がっている。まるで水晶を丸く切り出したみたいだ。
「ねぇお師匠様、これって嬉し涙すかね」
「どれどれ……」
お師匠様はそっとビンを手に取ると、しげしげと眺め
「違うね」
ピシャリと、そう言った。
「これは喜びと悲しみが混ざった涙だ。純粋な嬉し涙じゃない」
「じゃあ、命の種には使えない?」
「そうなるね。本来なら」
お師匠様はそういったあとも、まじまじとビンを眺めていた。何でも見通すお師匠様にしては、ずいぶんと興味深げに。
「嬉し涙じゃないけど、清らかな涙だね。普通にはない強い力を感じる」
「清らか?」
「ああ、綺麗で澄み切った優しい感情だ」
「だからビンが間違って集めちゃったってことですか」
「かもしれないね」
そう言ったお師匠様は、何だか嬉しそうだ。
「あの……なんか喜んでます?」
「お前は、人の心を開かせることができる魔女なんだね」
「そんなもんできたところで、クソの役にも立ちまへんがな」
「ちったあ素直に褒め言葉を受け取りな」
「大体、なんで一年前になって今さら呪いの話なんてしたんすか? せめてあと五、六年あったら……」
私はそこで言葉に詰まった。
「五、六年あったら、成し遂げられたって?」
「いえ……」
自分の性格なんてよくわかっている。
そんな時に言われても「時間があるから」って何もしないで、ひょっとしたらそのまま最期の日を迎えていたかもしれない。
「死の宣告が見えるようになるのは一年前からだ。持病であることも、十八で死ぬことも、そこで初めてわかる」
「お師匠様ほどの大魔導師でもですか?」
「ああ、そうだよ。例外はない。因果がすべて塗り替わる。それだけ強力な呪いだってことだ。それに、お前もわかってるだろう」
お師匠様はそう言うと、柔らかく笑みを浮かべた。
「今のお前だから、言う価値と、運命に抗う力があるんだよ」
「運命に、抗う……」
「それで、どうするんだい? メグ」
「どうするって?」
「このまま諦めて死を受け入れるのか、わずかでも生き残る可能性にかけるのか。お前が決めるんだ」
今日一日を通して、わかったことがあった。
私にはまだ、叶えないとダメな夢や、守らないとダメな約束があるということ。
私が生きることを、望んでくれている人がいるということ。
大切な人のために、私は生きねばならないということ。
そして、私はまだ、運命に抗うことが許されているということ。
「まったく、最低な誕生日プレゼントですね。お師匠様」
私はそっと、顔を上げる。
「やります」
気がつけば、そう答えていた。
「嬉し涙千粒、集めてみせます」
私が言うと、お師匠様はいつになく不敵な笑みを浮かべ、私をじっと見た。
その言葉を待っていた。そう言いたげに。
「やるだけやってみな、メグ・ラズベリー。今日から一年間に、お前のすべてをかけるんだ」
私は、そっと息を呑むと、
「わかりました」
ただ、それだけを答えた。
これは、余命一年を宣告された未熟な魔女が起こす、奇跡の物語。
第2回へつづく(4月9日公開予定)
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