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ものがたり

『ある魔女が死ぬまで -終わりの言葉と始まりの涙-』ためし読み連載 第1回 余命一年の魔女

 アンナちゃんのお母さんは、家から五分ほど歩いた先にある墓地に眠っていた。

「立派なお墓だね。ここにお母さんが眠ってるの?」

「うん」

 私が墓石にそっと手を触れると、足元のカーバンクルが、物珍しげに鼻先を擦らせた。

 加工され文字が刻まれた石は、どこか無機質で、どこか暖かい。

 この下に『死』が眠っているのだ。

「本当は知っているんだ、私」

「何を?」

「ママはもう起きないんだよね」

 アンナちゃんは、表情を変えずにまっすぐ遠くを見つめて、静かにそう言った。それはどこか、あふれ出す悲しみを抑えているようにも思える。

「そっか。アンナちゃん、わかってたんだ……」

 お母さんが死んで、もう会えないこと。戻ってはこないこと。

 この子は、全部わかっていて、ずっと我慢していたんだ。

 まだ、人が死ぬということを正しく理解していなくとも、肌で感じ取っている。

「ねぇお姉ちゃん」

「どした?」

「世界一の魔女でも……ママを起こせないの?」

 人を生き返らせる。

 魔法史においても、何人もの魔導師がその研究に生涯を捧げてきた。

 だけど、それはできなかった。

 何度もお師匠様に言われたことだ。

 人を生き返らせるなんて傲慢なことだと。

 世の流れを知り、理の声を聞き、それらを汲み取るのが魔法なのだと。

 だから、私たちは今目の前にあるものを受け入れ、そして自分ができる限りのことをしなければならない。

「うん。誰もアンナちゃんのお母さんを起こすことはできない」

 どう答えたらいいのかわからなかったけど、噓をつきたくなかったし、噓をつくべきではないと感じた。

 私はアンナちゃんから目を逸らさず、ゆっくり話す。

「この世には神様が決めた決まりがあってね、私たちはその決まりには逆らうことができないんだ。私たちはその決まりを、運命って呼んでる」


 ──お前は死ぬ運命にある。あと一年でね。

「アンナちゃんのお母さんは、運命が来たから、眠っちゃったんだ」


 ついさっき、私に余命を告げたお師匠様と同じような言葉を、私は口にしている。

 皮肉にも、自分が口にした言葉で、私は徐々に『死』を理解するようになっていた。

「神様に、ママを起こしてってお願いしたらダメなの?」

「ゾンビっているじゃん」

「うん」

「あれが何で人を襲うか知ってる?」

「知らない。何で?」

「爆睡してたのに無理に起こしたからだよ。キレてんだよ」

「じゃあ、ママも起こしたらキレるの?」

「ブチギレだよ。だからみんなびびって起こせないんだよ。神様もね」

「寝すぎだね、ママ」

「そんだけ頑張ったんだよ。だから寝かせてあげよう。それが人ってもんだ」

「人ってもんかぁ……」

「アンナちゃん、お花を咲かせてもママは起きない。それでも、花を咲かせたい?」

「うん」

「どうして?」

「きっと、ママは喜ぶから」

 アンナちゃんは、まっすぐ私を見つめる。

「ママが眠っちゃう前にね、アンナに言ったの」

「何を?」

「パパをお願いねって」

 その言葉を聞いた時、胸が震えた。

「パパ、ずっと元気なくて。いつも、ママの写真を見て悲しそうな表情をしててね。だから、ママがゆっくりおやすみできたら、パパも安心できるかなって」

「ひょっとして、お花を用意しようとしたのは、パパのため?」

 私が尋ねると、彼女は小さく頷いた。

「ママにゆっくり眠ってほしいし、パパにも元気でいてほしい」

 そっか。

 ママとの約束を守るために、この子はずっと、たくさんのものを抱えていたんだ。

 アンナちゃんは、突然大切な人がいなくなるなんて、きっと思ってもなかったはずだ。

 母親がいなくなって。

 父親も落ち込んでいて。

 何とかしたくて、どうしようもなくて。

 それで、アンナちゃんはうちに来たんだ。

 最初は、何もわかっていない小さな子が、無邪気に母親の好きな花をおねだりに来たんだと思った。

 でも違う。

 この子は、必死で母親の死を受け止めようとして、残された父親を支えようとしていたんだ。

 ヘンディさんだけじゃない。気丈に振る舞ってはいるけれど、アンナちゃんの中にだって、ポッカリと大きな穴が空いている。

 自分だって苦しくて、寂しいのに。

 一生懸命、家族のために頑張っていた。

 その強かさに触れて、私の胸は震えたんだ。

 自分が死ぬことすらイメージできない私より、アンナちゃんの方がずっと深く『死』を知っているのだと、私は気付いてしまった。

「おーい」

 不意に背後から声がして振り向くと、男の人が手を振って歩いてきていた。ヘンディさんだ。

「よかった、合流できて」

 急いで来たのか、ヘンディさんは肩で息をしている。

「ヘンディさん、何でここに?」

「どうしても気になってね、午後の診察は遅らせてきた」

「仕事しろよ」

 私の言葉にも、ヘンディさんは困ったような笑みを浮かべる。

 まったく、ダメな親父だ。ダメダメだ。

 でも、そんなダメな親父の背中を、私は押してやる必要があった。

 止まってしまったこの二人の父娘の時を、今の私なら動かせる気がする。

 家族を失うということが……大切な人を失うのがどういうことなのか、知ることができたから。

 彼らの心の穴を埋めるには、これしかない気がした。

「それで、メグちゃん。妻が好きだった花の正体、わかったのかい?」

「うん。と言っても、確証があるわけじゃないんだけど」

 私は、墓石にそっと手を置く。

「ヘンディさん、アンナちゃんのお母さんがあんなに花を飾ったのは、花を通してアンナちゃんに、自分の見てきた大切な光景を届けようとしてたからだと思う」

「大切な光景?」

「ヘンディさんと旅行に行った思い出の風景だよ」

 私はそっと二人を見た。

「アンナちゃんのお母さんが飾ってたのは、全部国花だったんだ」


 バラは米国。

 ヤグルマギクは独国。

 アイリスは仏国。


 アンナちゃんのお母さんが飾っていたのは、全部ヘンディさんと旅行に行った国の国花だった。

「幼いアンナちゃんに、大好きだった国の花を見せることで、少しでもアンナちゃんに世界を見てもらおうとしていたんじゃないかな」

「そうだったのか……」

「そして、最後に一つだけ。どうしても用意できないものがあった。たぶんそれは、アンナちゃんのお母さんにとって、一番見せたかったものなんじゃないかって思う」

 私はしゃがみ込むと、アンナちゃんの顔をまっすぐに見つめた。

「アンナちゃん。東洋にはね、ソメイヨシノって木があるんだよ」

「ソメ?」

「ソメイヨシノ。品種は桜。春先に咲く花だよ」

 ヘンディさんの話にあった、春先に山際で降ったという、ピンク色の雪。

 棚にあった薬草やハーブの中に『それ』を見つけて、私はピンク色の雪の正体に気が付いた。

 見つけたのは、サクラハーブ。

 桜の花びらを用いて作ったハーブだ。

 通常は紅茶などに使うのだが、今日は違う使い方をする。


「我が声よ届け」


 私は手のひらに握ったサクラハーブに、そっと手をかざすと、十二節にわたる呪文を口にする。


「大地の豊穣よ 木々の豊潤よ あまねく奇跡を聞き届け 我が元にかつての色彩を蘇らせよ」


 辺りの光が私の手元に集まり、周囲は夜が満ちたように暗闇に包まれた。集った光は私を包み、まるで夜に光るホタルのように幻想的な輝きを放つ。魔力反応だ。


「幻影は形となり 形は夢を見せ 夢は希望を授け あまねく奇跡はここにあり 果ては東より その色彩を浮かばせ」


 呪文が進むに連れて、私の手元にあるサクラハーブが、かつての彩りと瑞々しさを取り戻していく。

 ここに苗木や種がなくとも、草木に働きかければ、疑似的に桜として構築することができる。

 そのすべての元になるのが、このサクラハーブ。

 先程まで緑だった木にサクラハーブの色彩を同調させ、瞬く間にその姿を美しい花に変える。光が満ち、桜の色彩が満ちあふれる。

 それは決して科学では生み出せない奇跡だった。

 現象と現象の間に神秘を交えることで起こす、魔法の奇跡。

 力が自然と干渉し、周囲の景色を変えていく。


「美しい姿を見せて」


 私が最後の一節を唱えると、一気に世界は変わった。

「うわぁ……」

 感嘆の声をあげて、ヘンディさんとアンナちゃんは空を見上げ、カーバンクルははしゃぐように走り回っている。


 辺り一面が、桜の木々に覆われていた。

 ピンクの雪。

 そう呼ばれた無数の桜の花びらが、次々と舞い落ちていた。

「すごい……」

「桜の再構築魔法だよ。とは言っても、一時的な幻影みたいなもんだけど」

 得意気に洟をすすってみたけれど、内心驚いているのは私の方だ。私が当初想定していたよりもずっと広範囲に魔法が展開されたからだ。

 今、百本近い桜の樹が、私たちを包むように広がっている。

 数時間もすれば消えてしまうであろうその光景は、まるで奇跡のように美しくて。

 本当に奇跡なのかもしれないな、なんていい加減なことを考えてしまう。

 ヘンディさんは呆然と桜を眺めていたが、ふと「思い出した」と静かに口を開いた。

「もうずいぶん前、アンナが生まれる前に行った東洋旅行だ。ほら、春なのにピンク色の雪が降ったって言ったろ? それはさ、イリスが言ったんだ。一面に舞い落ちる花びらを見て『まるで雪だね』って。それで、花びらのことをすっかり雪だと思い込んでしまってたんだな」

「アンナちゃんのお母さんが東洋に行きたかったのは、きっと、この光景をアンナちゃんに見せてあげたかったからだと思うんだ。アンナちゃんのお母さんにとって、ヘンディさんとの思い出は、絶対に忘れられない大切な思い出なんだよ。流石に桜を用意するのは無理だから、サクラハーブを取り寄せたんじゃないかな」

「そうだったんだ……」

「それだけじゃないよ。キッチンにあったハーブ、実はへンディさんのために用意されたものだって知ってた? どれも、へンディさんの体調に合わせたものが選ばれてたんだ」

 ローズマリー、ラベンダー、ハイビスカス、カモミール、ジンジャー。

 神経を和らげたり、ストレスを緩和したり、体を温めたり。

 キッチンにあったハーブは、リラックス効果が高いものが多く集められていた。

 医者という仕事は精神的にも肉体的にも疲労しやすい。そんなヘンディさんの体調を気づかって、品種を選んでいるのがわかった。

「ヘンディさんはずっと、奥さんに苦労させてしまったことが心残りだったかもしれない。でもきっと、へンディさんの本当の気持ちも、奥さんはちゃんとわかってた。ハーブに、桜に、たくさんの花に……こんなにいつも家族を想ってる人、他にいないよ。奥さんはヘンディさんも、アンナちゃんも、心から愛してたんだ」

「メグちゃん……」

 私は桜を見つめるアンナちゃんの手を、そっと握りしめる。

「アンナちゃん、お母さんは、きっともう大丈夫。だって、大好きなアンナちゃんに、自分が一番見せたかった花を見せることができたんだから。だからもう、安心していいんだよ」

 その時。

 アンナちゃんはハッとしたように目を見開くと、大きな瞳を潤ませた。

「もう……アンナ、我慢しなくても、いい?」

「うん……大丈夫だよ」

「本当?」

「本当。よく頑張ったね、アンナちゃん」

 すると、アンナちゃんの瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。

「アンナね、ママがいなくなってから……ずっと、ずっと寂しかったの……。パパが元気なくて、ママもいなくなっちゃって、ずっと、ずっと……」

「アンナ……!」

 ヘンディさんは、力強くアンナちゃんを抱きしめる。

「ごめん、アンナ。パパ……もう大丈夫だから。もう、アンナに寂しい想いはさせない」

「うん……!」

 二人の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちる。それはまるで、ずっと堪えていた感情があふれ出てきたかのようでもあった。

 その姿を見て、私はふと気付いた。

 アンナちゃんのお母さんは、どの写真もとても幸せそうな顔で笑っていた。

 それは、死ぬのが怖くなかったわけじゃない。

 二人が自分のことを思い出した時、いつも笑っている姿を思い浮かべられるようにしていたんだ。

 自分のことが、辛い記憶じゃなく、素敵な思い出でいられるようにするために。

「アンナちゃんのお母さんは、自分がいなくなったあとも、二人に笑っていてほしかったんだ……」

 舞い落ちる桜の花びらと共に、二人の頰からこぼれた涙は小さな結晶となり。

 カタリと音を立ててビンに落ちた。


「ありがとう、お姉ちゃん」

 魔法が切れ、すべての桜が元の緑葉に戻る頃には、すっかり陽は傾き、影は長くなっていた。

 アンナちゃんの家の前で、二人に見送られる。

「あんなんで良かったかね」

「うん。きっとママ、喜んでる」

「本物の桜じゃないけど?」

「そこはまぁ……うん」

 フォローしろ。

 私が嘆息していると、へンディさんも「メグちゃん、僕からもお礼を言わせてほしい」と頭を下げた。

「妻が死んでから、娘と二人、ずっと心が沈んでたみたいだった。でも、それだと安心して妻が眠れないなって気付いたよ。いつも僕らに笑っていてほしい。そのイリスの遺志は、きっと君がいなかったら気付くことができなかった」

「ホント、頼れる親父になってくださいよ。期待してんですから。でも結局、仕事サボっちゃったわけですけど大丈夫なんすか?」

「はは……患者さんも、今日くらいは許してくれるかな」

 その時、五時の鐘の音が、ラピスの中心にある時計塔から鳴り響いた。

 いつもなら、そろそろ夕飯の準備をしなければならない時間だ。

「ヤバッ! そろそろ帰らんとお師匠様にどやされる! じゃあ、拙僧はこれにて……」

 私が踵を返すと、「メグちゃん!」とアンナちゃんが声を出した。

 振り返ると、キラキラした、まっすぐな瞳でアンナちゃんが私を見つめている。

「メグちゃん、いつかファウスト様みたいになる?」

「えっ? 何だよー、急に」

「だってだって! メグちゃんは、ママの大切な花を見つけてくれたんだもん! きっとファウスト様よりずっとすごい魔女になるって、アンナ信じてる! だから、約束して!」

「えーと……うぅ……」

 言えない。

 自分があと、たった一年で死んでしまうだなんて。

 何をどう言ったものか。私が言葉に詰まっていると、ヘンディさんがアンナちゃんを後ろから抱きしめた。

「大丈夫さアンナ。なれるよ、メグちゃんなら。未来の大魔導師に」

 そう言ったヘンディさんとアンナちゃんの顔は、心からの信頼にあふれていて。

 疑い一つない、まっすぐな想いが私に伝わってきた。

 父娘してそんなキラキラした顔を向けてくるんじゃないよ。何だか照れくさくて、私は思わず洟をすする。

「わかったよ! じゃあ、いつか私がすごい大魔導師になったら、その時は幻じゃなくて本物の桜を見せたげる」

「本当!?」

 目を輝かせるアンナちゃんに、私は笑みを浮かべ、はっきりと頷いた。

「ま、期待しててよ!」


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