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ヘンディさんに連れられ、私たちはキッチンへと足を運ぶ。
キッチンに入る前に、ふと洗面所に目が行った。
洗面所に残ったままの三本の歯ブラシ。子供用が一本と、大人用が二本。
よく見ると、キッチンにもマグカップが三つあったり、お皿が三枚ずつ揃えられていたり。
アンナちゃんのお母さんが暮らした痕跡は、そこかしこで見て取れた。
そっか。
まだこの家の時間は、止まったままなんだ。
「どうにも片付けが手につかなくてね。いろいろとそのままなんだよ」
ヘンディさんはポットでお茶を沸かしながら、困ったように笑った。
「妻のものも、徐々に片していかないとダメなんだけどね」
その姿は、何だか力がない。生気が薄れているような印象を受けた。会話をしているのに、心がどこかに置いてけぼりになっているような、そんな印象。
「なんか手伝うことあります?」
「お客さんなんだから、座ってていいよ」
家主がそう言うならばお言葉に甘えるか。私はソファに座り、何気なく部屋を見渡す。
すると、薬草を保管したビンが棚に置かれているのに気が付いた。こんなふうに薬効のある植物をわざわざ調達して管理している人は結構珍しい。
「薬草が気になるかい?」
「すごい数……。しかも結構珍しいのが多いですね」
「以前、魔法薬の素材が手に入りにくいってファウスト様がぼやいてたからね。薬草の取り扱いに詳しい友人から仕入れるようにしたんだ」
「たまに素材を持ち込んでくれてたのはそういうわけでしたか」
治療で幅広い種類の魔法薬を提供できるよう、素材集めから行っているのか。その努力に脱帽する。
「そっちのハーブも薬用ですか?」
見ると、薬用の植物とはまた別の棚に、いくつかハーブが入ったビンが並べられていた。葉や茎を乾燥して細切れにしたものが、ビン一杯に入っている。
「あぁ、そっちは妻が趣味で集めてたハーブだよ。何に使うのかは知らないけど……」
そう言いながらヘンディさんはガタガタ棚を開いたり、キョロキョロと辺りを見回していた。
「何してんですか」
「いや、お茶っ葉を探してるんだけど見当たらなくてね。妻が死んでからお茶を飲むことなんてなかったから」
「しっかりしてくださいよ。今どきの男は家事もできなくちゃ」
「アハハ……耳が痛いね」
「お茶っ葉ならここにありますよ」
私は立ち上がると、ハーブの入ったビンを手に取る。
「それ、お茶っ葉なのかい?」
「ハーブティーってあるでしょ。たぶんそれに使ってたんじゃないですかね。一種類でもいろいろ効能があるし、ブレンドしても美味しいんですから。私こういうの得意なんで任せてくださいよ」
私はハーブをいくつか吟味する。
その中で一つ、気になるハーブがあり、思わず手に取った。
「これって……」
こんなものまであるのか。かなり珍しい。せっかくなので、これもお茶に使わせてもらおう。
キッチンペーパーの上にいくつかのハーブを載せ、テーブルの上に置いた。
そのまま内側の魔力の流れを意識し、そっと手をかざして十二節の呪文を唱える。
「草木 我が命の元に その内なる力 示せ 汝 あるべき姿 ここに齎し 糧として 一部となり 共に在れ 我ら常に 共にあらん」
すると辺りが暗くなると同時に、ハーブをほのかな光が包んだ。魔力反応を起こしているのだ。プスプスと煙が昇り、香りが広がる。
「すごぉい!」
いつの間にか戻ってきてたアンナちゃんが、私の手さばきを見て瞳を輝かせた。
「これが魔法?」
「そだよ、すごいでしょ」
「うん」
「本当、見事なもんだね」
いつの間にかヘンディさんもこっちに来て感心したように頷いている。
「お姉ちゃん、今の何やったの?」
「ちょっと葉を燻しただけだよ。こうすると味と風味が良くなんの」
「何でもできちゃうの?」
「それはちょっと無理。魔法をかけるのにも知識がいるから」
魔法というと、無限に何でも起こせる奇跡の技と思われているが、実際は違う。魔法にも分野があり、現象や物質の知識がないと思った効果を出すことはできない。
火を起こすのなら物質に摩擦熱を発生させる。
水を出すのなら元素分解と結合を執り行う。
爆発させるのか、燃焼させるのかでも、やり方が異なる。
原理を理解し、その間に神秘を割り込ませるのが魔法なのだ。
だから、魔導師となるにはそれなりに知恵が必要だし、当然それぞれ得意分野とそうでない分野がある。私は薬学や植物学を勉強しているし、科学や化学を勉強する魔法使いだっている。知識がなければ、魔法は使いものにならない。
中でもお師匠様が使用する『時魔法』は別次元の難易度だ。
時間論自体は物理学や哲学の分野と考えられ、時魔法にはそれらを補完するあらゆる知識が必要となる。
お師匠様は千里眼も使えるので、知識を経て構築した時魔法を、更に人体構造学や医学を通じて肉体に影響させ、時を読んでいると推察される。
私には無理だな!
「そういえばアルバムは?」
「あ、そうだ。持ってきたよ」
アンナちゃんは手に持っていたアルバムを机の上に置く。ずいぶん分厚くて、表紙も少し古い。長年使ってきたのだろう。
開いてみると、全ページにわたってたくさんの写真が入っていた。
ヘンディさんと、綺麗な女性が一緒に写っている。この人がアンナちゃんのお母さんだろう。目鼻立ちはスッと整っているけれど、どこか儚げな印象を受けた。
最初の頃はヘンディさんと奥さんの二人で。
途中からアンナちゃんが加わって三人で。
一つの家族の歩みと歴史が、このアルバムに収められている。
「ずいぶん旅行写真が多いな……」
「僕も妻も旅行が好きでね。アンナが生まれる前は、よく一緒に世界を巡っていたよ」
「優雅だなぁ。私も世界旅行とか行ってみたかったよ」
「ファウスト様はよく世界に出てるじゃないか」
「あれは仕事です。そして、私はお留守番。付いていっても、足手まといになるだけでさ」
「じゃあ、いつかメグちゃんが一人前になったら、ファウスト様も助手として連れていってくれるんじゃないかな」
「いつか……?」
その『いつか』は、もう私には来ない。
思わずそう言いそうになって、言葉を呑み込んだ。誤魔化すように、ページを進める。
ヘンディさんと奥さんの旅行写真は多岐にわたっていた。米、独、仏露に東洋。まさしく世界旅行だ。
私が写真を眺めていると、横からヘンディさんも「懐かしいなぁ」と声を出す。
「ほら、この写真。東洋に行った時のやつだよ」
「和の装飾の建物が多いっすね。ちょっと伝統的っていうか、古いっていうか」
「あそこは昔の文化が残ってるからね。妻はこの国の旅行が、特にお気に入りだったな。絶対アンナをまた連れていくって、よく言ってたよ」
「ふーん、そんなに素敵な国なんだ」
「食べものとかは結構独特だったね。生食用の魚が出たり、揚げ物も見たことのない形で、いろいろ新鮮だったよ。でも一番印象的だったのは、この国でした不思議な経験だったな」
「不思議な経験?」
首を傾げると、へンディさんは頷いた。
「山際の寺院を見に行った時のことなんだけど、雪が降ってたんだ。すっかり春で、暖かかったのに。不思議だったな」
「春なのに雪が降ってたんですか?」
「しかも、空は晴れててね。そんなこと起こるはずないのに、ピンクの雪が舞い落ちてきて……本当にキレイだったなぁ。僕も妻も、ずっと目を奪われてね。今もずっと印象に残ってるよ」
「へぇ、暖かい季節に降る、ピンク色の雪……か」
写真に残っていないかと探してみたが、どうやらそれらしいものはなさそうだった。
「……今思えば、何もやってあげられなかったな」
ポロリとこぼれるように、ヘンディさんは呟いた。
「入院する前、春になったらアンナを連れてこの国に行こうって言ってたんだ。でも、アンナが生まれてからは、ほとんど家のことも任せきりで。家族を食わせなきゃって、その一心で頑張ってきたけれど、仕事仕事で頭が一杯になっていて。こんなことなら、無理をしてでも旅行くらい行けばよかった」
ヘンディさんの中には、今も消えない心残りがあるのだろう。
奥さんのために何もしてあげられなかったこと。
医者として奥さんを助けられなかったこと。
そうした、小さな積み重ねが、少しずつ心の中に降り積もっているのかもしれない。
彼の小さな背中と、弱々しい微笑みを見つめていると、そう感じてしまう。
ページを進めると、やがてアンナちゃんが写真に登場するようになった。最初の方が異国で写したものばかりだったのに対し、後半は国内で撮られたものばかりだ。
家や、ラピスの自然公園、親族の集まり。
最後の方は、病院のベッドに座って、アンナちゃんとお母さんが一緒に微笑んでいる。
アンナちゃんのお母さんは、ずいぶん瘦せこけていた。
「奥さんは、いつから病気に?」
「ちょうど一年前くらいかな。大きな病気を患って、そこから闘病生活さ」
「一年……」
私の余命と同じ長さだ。
アンナちゃんのお母さんは、一体いつから死を覚悟していたのだろう。
写真に写っている姿からは、とてもそんな悲壮な様子は感じられない。
むしろ、こんな穏やかで幸せそうな顔はめったに見られないと思う。
どの写真を見ても、アンナちゃんのお母さんは笑っている。
この人はきっと、幸せだったんだ。
今の私がもし死んだとしても、きっとこんなふうには笑えない。何となくそう感じてしまう。
ふと、家で撮った写真に、どれも花が写り込んでいることに気付いた。
バラ、ヤグルマギク、アイリス、スズラン、カモミール、ムクゲ、シャクヤク、マツリカ、ハイビスカス。かなりいろんな種類の花を飾っている。
「この花は、いつも奥さんが?」
私が尋ねると、ヘンディさんは頷いた。
「あぁ。生花店で買ってきたり、薬草の仕入れと一緒に持ってきてもらったりね。いろいろ工夫して、いろんな花を飾ってくれてたんだ」
「ママの飾ってくれたお花、いつも綺麗だったよ」
「それはすごいな……すごいけど……」
これでますますわからなくなった。
アンナちゃんのお母さんに、一体どんな花をあげればいいんだろう。考えれば考えるほど答えが見えなくなり、頭から湯気が出てきそうになる。
「うがー! もうこんがらがってきたぁ!」
ガリガリと頭を搔く私を見て、ヘンディさんは苦笑した。
「とりあえず一旦休憩にしようか。せっかくメグちゃんが用意してくれたお茶もまだ飲んでないしね」
「そういえばそうだった……」
お湯を温め直してお茶っ葉を入れ、数分蒸らしてカップに注ぐ。
カップにお茶を注いだ瞬間、柔らかで豊かな香りが広がった。
「すごーい! いい匂い!」
目を輝かせるアンナちゃんを見て、私はニシシと笑った。
「でしょ? ハーブティーは美味いんだよ。実は隠し味も入れてるんだ」
「隠し味?」
その時だった。
口に広がるお茶の味と、鼻腔に広がる花の香りが、私の中で一本の線になった。
春の季節、気候は穏やかで、山際を歩いた時に降っていた、ピンクの雪。
家に飾られた花が、アンナちゃんやヘンディさんのために用意されたものなのだとしたら。
お供えすべき花は、これしかない。
「ねぇ、アンナちゃん。お母さんの寝てるところってここから近い?」
「うん。すぐだよ」
「じゃあ連れてってよ、今から」
私はニッと笑った。
「ピンクの雪と、お母さんが見たかったお花、見せたげる」