17 決死の脱出
「……おね」
「しっ」
しゃべろうとした春奈を、すみれはすばやく止める。
話して安心させたいのはやまやまだけど、今、その余裕はない。
ゴミ箱の上から、そっと向こう側をのぞく。
ゴミ箱をはさんで位置を入れかわったトラは、地面をくんくんとかいでは首をかしげていた。
よかった。ゴミ箱のにおいのおかげで、あたしたちの存在には、はっきり気づいてなさそう。
でも、いつどうなってもおかしくない。ここにギリギリのタイミングですべりこむだけで、正直、すべての集中力を使ったくらいだ。
だけど、まだ止まれない。
──春奈を、無事に連れだすまで。
すみれはスマホを取りだすと、音を立てないよう注意しながら文字を打ちこむ。
『ついてきて』
春奈は、文字を見て、一瞬、目を見ひらいたものの、こくりとうなずく。
準備はOKだ。
──行くよ、光一!
すみれは、親指をつきたてた手を高くあげる。開始のサインだ。
その瞬間、トラの奥にあるしげみから、何かが動く音がした。
ガサッ ガサガサッ!
ウウゥッ!
よし!
トラが長い牙を出しながら音がしたほうを振りむくと、すみれは春奈の手を引いて走りだした。
逃げる先は通路──じゃなくて、トラ舎の中!
「お姉ちゃん!?」
春奈が、ぎょっとして声を出す。
ダメ、声を出したら!
トラが、サッと、二人を振りむく。すみれはトラと視線が合う前に、開いていたドアからトラ舎の中にすべりこんだ。
動物のにおいが、むっと鼻につく。
「お、お姉ちゃん。なんでオリの中に入ったの!? 逃げるなら外にいかないと!」
「それじゃあ、ダメ! トラは時速五十キロで走るから、あたしと春奈じゃ逃げきれない!」
もしうまく逃げても、他の人が襲われる。だから──。
「ここに、閉じこめる!」
ガターン!
来た!
待ってた、あたしの相棒!
「待たせた!」
背後にある飼育員用のドアが開いて、息を切らした光一が顔をのぞかせる。
手で押してきたのは、巨大なカートだ。新鮮な鶏肉と馬肉が、たっぷりと入っている。
「すみれ、やれるか!?」
「もちろん!」
こういう大ピンチのために、鍛えてるんだから!
──キイィ
グルル……
オリのドアが開く音と同時に、トラが中に入ってくる。
すっかり狩りのモードに切りかわって、ぞっとするような視線をあたりに向けている。
勝負は一瞬。
トラがあたしたちを見つける前に──このエサ爆弾を放つ!
すみれは、大きなカートのはしを、両手でぐっと持つ。
七日分のエサ。重さ約六十キロ。しかも安定したカートに入っているから、人の体とくらべると、持ちあげて、ひっくり返すのは至難のわざだ。
でも──あたしなら、できる!
つかんだカートのすみを柔道着のえりとそでに見立てて、ぐっと引きよせる。あとは、ぐらついたカートの車輪に足をタイミングよくかけるだけだ。
グラッ
──行ける!
だって、これは光一が立てた作戦だから!
「くっ、小内刈りっ、トラへのエサやりバージョン~~~~!」
ドンガラガッシャーン!
ものすごい音とともに、エサがつまったカートをトラのほうへひっくり返す。
驚きつつも、トラは興奮しながらエサの山に飛びついた。
今!
「春奈、行くよ! 光一!」
「こっちだ!」
光一を先頭に、すぐそばの飼育員用のドアから、トラ舎のさらに奥、バックヤードへ逃げる。
すかさず、しっかりとカギをかけ、中の通路を一気に駆けぬけると、一つのドアが見えてくる。
外!
バンッとドアを押しあけて、外に出る。さらにトラ舎をぐるりと回って、さっきのゴミ箱の前まで戻った。警戒しながら中を見た光一が、うなずいて合図する。
「「せーの!」」
一瞬のズレもなく、同時にゴミ箱を押す。そのまま力わざで押しこむと、ゴミ箱は鈍い音を立てながら、トラ舎のオリの出入り口にしっかりとおさまった。
「はあーっ、はあーっ……」
あー、百本組み手をしたぐらい、疲れた! しかも、まだ体から獣のにおいがする気がする。
でも──これでトラとのニアミスから無事、生還。
春奈救出作戦、成功!
「は~~~~、よかった……」
ズルズルとその場に座りこむと、同じように座っていた光一が拳を突きだしてくる。
だいぶあわてていたのか、髪の毛がボサボサだ。それに、エサを運ぶときについたのか、顔や服があちこち黒く汚れていた。
……ふーん、めずらしい。
すみれは、ニコッと笑いながら、光一が突きだしてきた拳に、自分の拳を思いきりぶつけた。
* * *
「いてっ!」
本当に、全力で拳をぶつけるやつがいるか!?
「光一~~、すみれ~~~~!」「春奈ちゃん、だいじょうぶ!?」
トラ舎から脱出して広場まで出たところで、健太にクリス、和馬が走ってくる。
だれも、ケガをしたようすはない。
よかった。みんな、無事か。
光一が手を振りかえす前に、最初にたどりついた和馬が、三人を見下ろして言った。
「遅くなった。連絡どおりに来たが──光一と五井の二人で、なんとかなったのか」
「ああ。みんなのおかげで、なんとかギリギリな」
最後は、かなり力わざだったけど。
光一は、目の前に座りこんだ春奈を見つめる。
まだ、何が起きたのかよくのみこめないのか、すみれと光一を見たまま、ぼうっとしている。
「春奈、ケガはないか?」
「う……うん、だいじょうぶ。お姉ちゃんと光一くんが助けてくれたから……」
「連絡がつかなかったから、みんなで心配してたんだ。それと、すみれがさがしにいくって聞かなくて」
「お姉ちゃんが?」
春奈が、すみれを見つめる。
すみれは、一瞬ばつが悪そうにしたものの、すぐにつんとあごをそらした。
「あ、当たり前でしょ。だって、春奈のことが心配だったし……でも、春奈、ダメじゃん! ちゃんと避難しないと。もうだいぶ時間もたってたのに」
「そう……だよね。わたしが、考えなしだった」
春奈が、うつむく。その手がにぎりしめたスカートのポケットの口で、何かがにぶく光った。
……あ。
「すみれ、待て。春奈にも事情があったんだ。たぶん、さがさなきゃいけないものがあったんだろ? たとえば──そのペンとか」
「え?」
「……やっぱり、光一くんは、何でもわかっちゃうんだね」
春奈が、泣き笑いのような表情で、ポケットからそれを取りだす。
少し汚れた手のひらにのっているのは──パンダがついたペンだ。
パンダ姉妹のミニチュアがついた、少し古いボールペン。
すみれが、あっと、大きく口を開けた。
「これ! あたしとおそろいのペンだ。前に動物園に来たときに買ってもらった……」
「じつは……このペンをさがしに、トラ舎へ行ったの。避難しなきゃいけないってわかってたけど、どうしてもなくしたくなくて。これは、お姉ちゃんとの思い出のペンだから」
そう言ってペンを抱きしめた春奈は、小さく肩を震わせる。次の瞬間、そっと閉じた目から、ぽたぽたと涙のしずくがあふれだした。
「でも、こんなことになるとは思ってなくて……本当にこわかった。トラをすぐ間近で見たとき、もうダメだと思って……」
「春奈……」
すみれが、手を伸ばして、春奈を抱きよせる。小さな手がそっと春奈の頭をなでると、春奈の目から、またつっと涙が流れた。
「わたし……もうダメかもって思ったとき、お姉ちゃんのことを考えてた。お姉ちゃんが助けに来てくれたらって……」
「……うん」
「ごめんなさい。お姉ちゃん、本当に、本当に、ごめんね!」
「いいの、春奈。あたしこそ、ごめん」
すみれは、首を横に振った。
「あたし、春奈が心配してくれてること、ちゃんとわかってなくて。カッコよくて頼りがいがあるように春奈に見られたいって、自分のことばっかり考えてて……っ」
「……そんなに、がんばらなくてもいいよ」
いつの間にかうつむいたすみれを、今度は春奈がそっと見上げる。
そして、泣きはらした目で、すみれにほっとするような笑みを向けた。
「お姉ちゃんが、カッコよくて頼りがいがあること、わたしはだれより知ってるよ。だから、だいじょうぶ。お姉ちゃんは──そのままで十分すてきな、わたしのお姉ちゃんだよ」
「春奈……ありがと!」
すみれが、春奈を、ぎゅーっと抱きしめる。
これで、二人の仲も一件落着だな。
あと、問題は──一つだけだ。
「さてと、じゃあ、あたしたちも出口に行こう! そろそろ、福永先生の頭からツノが生えてるかもしれないし──」
「すみれ。ちょっと待ってくれ」
光一は、みんなの中心で、ゆっくりと立ちあがった。
「じつは、あと一つ、捕獲したいものがあるんだ。避難は、その後でもいいか?」
「えっ、すでにこんなに遅れてるのに!? それって、ツノが生えた福永先生から怒られてでも、捕まえなきゃいけないもの?」
「まあ、そうだな」
どっちかっていうと──ツノを回収に行かないと。
春奈が小さく首をかしげる。
「お姉ちゃん、どこか行くの?」
「えっ! ええっと、まあね。すぐ戻ってくるとは思うんだけど……光一、もうちょっとくわしく説明してよ。そうじゃないと、また春奈に」
「じゃあ、わたし、この広場で待ってるね」
「えっ、いいの?」
「わたし──お姉ちゃんのことも、みんなのことも信じてるから」
春奈は、静かに言った。
「光一くん、待ちあわせはこの広場でいいよね? ここはトラからもはなれてるし、見晴らしもいいから安全だと思うの。待ってたら、絶対帰ってきてくれるでしょ?」
「……ああ」
光一の返事に、春奈はにっこり笑うと、すみれの手を、ぎゅっとにぎる。
まるで、自分の力をあずけるみたいに。
「がんばってね、お姉ちゃん」
「……うん!」
すみれが、力強くガッツポーズする。
それなら、おれは、<外字><外字>の居場所をはっきりさせないとな。
光一は腕を組むと、あごに手を当てて、そっと目を閉じる。すると、すぐに、頭の中に動物園のマップがぱっと浮かんだ。
動物園は長方形で、脱出口は二か所ある。
ゾウが特に動きまわった南側の正門と、避難しやすかった北側の裏門。
さらに、和馬とクリスから聞いた動物や通路の状態をつけくわえて考えると──。
「……わかった」
きっと、犯人はあそこにいる──あの大事なものを抱えて。
ゆっくり目を開けると、みんながじっと光一を見ている。
手短に内容と場所を説明すると、健太が、大きく手をあげた。
「はーい! だれかペンを持ってる? ぼく、いいアイディアが浮かんだんだ。できれば、茶色のペンを借りられるとうれしいなあ」
「わたし、持ってるわ。わたしも健太にお願いしたいものがあるんだけど……いいかな?」
「あたしも、健太から大事なアレを借りなくちゃ。みんなの苦労を、ちゃーんと体験させてやるんだから」
「オレは大したことはしない。ただ……少しきつく捕らえるだけだ」
みんな、一日中、走り回ったのに、やる気十分だな。
もちろん、おれも──思いきりやるつもりだけど。
おれたちの校外学習をめちゃくちゃにして、みんなを巻きこんだ責任は取ってもらう。
「動物園見学、最後の仕上げだ」