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中学生5人のさわやかで甘ずっぱい青春を描く、『ソノリティ はじまりのうた』大ボリューム先行れんさいがスタート!
音楽や部活の物語、恋の物語が好きな人はチェックしてね♪
#5 から回り
早紀が指揮棒をサッと頭上に持っていった。肩まで伸びたまっすぐな黒髪が少し揺れた。それを合図にみんなが同時に、足を肩幅くらいに開いた。早紀の瞳の奥に輝きがともった。
早紀は目線を伴奏者の音心(そうる)に移すと、小さく指揮棒を振り出した。音心の前奏が滑るように始まった。そんなあたりまえのことが、涼万(りょうま)にはあうんの呼吸に見え、いちいちひっかかった。
そっか、水野も井川も同じ吹奏楽部だもんな。だから息が合ってるんだな。
さっき、誰も並んでくれなくて早紀が困っているところを、音心が驚きのピアノテクニックで助けたのも、同じ部活仲間だからだろうと、涼万は勝手に推測し都合よく納得した。
前奏はアレンジ版ではなく、いつもの決まったフレーズだった。早紀は今度はみんなの方に向き直り、大きく指揮棒を右上に振り上げた。華奢な体にエネルギーが流れ出した。歌が始まる。
──はじめはひとり孤独だった
出だしは、ソプラノもアルトも男声もいっせいに同じ強さで入るのだが、いつものことながら男声はほとんど出ていなかった。
ソプラノは人数が多いし、アルトには声の大きい晴美がいる。そのおかげで、女子はそれなりに形になっているのだが、男子はつぶやくような声しか出さない。
それでも早紀の指揮棒は、なめらかに宙を切り続けた。指揮棒は早紀の指先と一体になって、その先っぽから目に見えないベクトルみたいなものが放たれているようだった。
歌うときに指揮者に注目するのはあたり前のことだが、涼万は早紀の姿を堂々と臆面もなく見られることに感謝した。
やがて早紀の目に不安の色が浮かんだ。あと少しで男声パートだけのメロディーが始まる。そこがいつも一番悲惨だった。ソプラノやアルトの歌声がなくなれば、男声だけではほとんど歌詞も聴き取れないようなみじめな音量だった。
ふだんはそんなことまったく気にしていなかったのに、今日の涼万は違った。このまま男子が誰もまともに歌わなかったら、早紀が気の毒に思えて仕方がない。これから始まる好ましくないことに身構えるように、早紀のくちびるが結ばれた。
今日はちゃんと歌ってみようかな……。
急にそんな気になった。自分がらしくないことをしようとしているのは分かっていた。でも、前のめりになって体全体で指揮をする早紀の姿を見ると、真面目に歌いたい、歌ってあげたいという衝動が突き上げてきた。
男声パートの入りぎわ、涼万はすっと息を吸い込んだ。が、その息が喉を刺激したのか、むせそうになった。息を止めて、必死で咳を押し戻す。
──迷いながら躓きながら
とても二十人の声とは思えない貧弱な男声パートが始まった。
涼万の咳は、出してはいけないと思えば思うほど、余計に耐えがたいほど喉を刺激した。喉もとを両手で押さえ、目をギュッと閉じる。かろうじてこらえた。顔が真っ赤になった。
となりの男子生徒やそのとなりにいた岳までも、涼万の方をちらちら見だした。涼万が薄目を開けて早紀を見ると、心配そうな早紀の瞳とかちりと合った。
そのとたん、火山が噴火したみたいに、咳が爆発した。いったん噴出してしまった咳は、とどまるところを知らなかった。慌てて腕で口もとを押さえた。腰は折れ、顔はますます真っ赤になった。咳は教室中に響き渡った。
男子たちは歌うのを止めてしまった。となりの男子が背中をさすってくれた。岳が、
「おい、大丈夫かよ」
と、声をかけた。涼万は俺のことはほっといてくれと言わんばかりに、震える片手を上げた。
また混声パートに戻っても、ほとんどの女子も涼万の方を向いてしまい、女子の声もしまりがなくなった。
それでも、音心の伴奏は何事もなかったかのように流れ続け、おそらく早紀も指揮棒を振っているのだろう。
苦しすぎて、涼万の目から涙が出た。ハンカチで口もとを押さえようとズボンのポケットをまさぐったが、どうやらハンカチも忘れてきたらしい。
とうとう誰も歌わなくなった。音心の伴奏がすごく中途半端なところでプツッと途切れた。早紀の指揮棒も宙で止まってしまったのだろうか。
涼万は顔を上げられなかった。
※実際の書籍と内容が一部変更になることがあります。
#6へつづく(2022年4月3日 7時公開予定)
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